Special Theme 3<特別小論>
■ 本論(つづき) 岩倉具視の思惑 明治6年9月13日、大久保がひたすらその帰りを待っていた岩倉大使が伊藤博文とともに帰国しました。欧米の高度な文明と圧倒的な国力を目の当たりにした外遊組の意見は、内政重視で一致していました。具体的に言えば、木戸は基本憲法の制定を、大久保は内務省の設立を考えていたのです。そして岩倉は最初、西郷、木戸、大久保を中心にした新内閣の樹立を考えました。そのためにはまず隠退をちらつかせている木戸を翻意させ、大久保を参議にして、二人を協力させる必要がありました。こうした問題で、様々な方面の周旋に奔走したのが長州では伊藤、薩摩では黒田清隆でした。 伊藤博文の思惑 留守政府、とくに西郷を相手に戦うためには、三条、岩倉、大久保、木戸の一致団結が不可欠であると伊藤は考えていました。このままでは正院において優勢な征韓派が勝利することは眼に見えています。留守政府メンバーがさまざまな思惑をもって味方する西郷に対して互角の勝負ができるのは、大久保を除いては天下に何人もいないことを伊藤はよくわかっていました。したがって、彼は4人の協力体制の確立を目指して奔走し、とりわけ大久保の参議就任の実現に力を注いだのです。 黒田清隆の思惑 黒田(開拓次官)は征韓論が勢いを増すなか、突然、樺太問題を取り上げ、樺太におけるロシアの横暴に対して出兵して対抗すべしとの意見を出して、征韓派をけん制しました。彼は西郷には目を掛けられ、恩を感じていましたが、土肥の参議たちに対しては反感を抱いていたのでしょう。伊藤とともに大久保の参議就任に尽力することになります。できれば、西郷を土肥連中からひきはなし、西郷、大久保の間を周旋して、西郷・大久保・木戸内閣の実現を目指したかったようです。 大久保利通の思惑 大久保は内治派の面々から参議就任を懇請されても、容易に首を縦には振りませんでした。前回にもすこし触れましたが、彼はきわめて困難な立場におかれていました。一つは新政府の改革に批判的な旧主島津久光との関係、いま一つは親友西郷との関係であることは、容易に想像がつきます。それに加えて大久保は、三条、岩倉両大臣に対して疑念を抱いていました。もとより三条は留守政府の首班ですから、内閣の決定事項には責任があり、岩倉は新政府より西郷を失うことを恐れていました。彼らが最後まで反征韓派にとどまるかどうか確約のないかぎり、大久保としては軽々しく参議を引き受けるわけにはいかなかったのです。しかし、彼の思慮の大半を占めていたのは、それ以外のことだったようです。岩倉からの再三にわたる参議就任の懇請に対して、大久保の答えはいつも同じでした。すなわち、 「過日来、再三申し上げているとおり、木戸氏を根軸として、速やかに諸事をお運びなされるよう希望いたします」 大久保は辞意を表明している木戸の動向をもっとも気にしており、木戸がこれを撤回しないかぎり、うかつには動けなかったのです。もし征韓派に勝利したとしても、木戸に逃げられたら新政府を支えきれるものではない、と冷静に先を見通していたのでしょう。西郷を向うにまわして戦い、英雄視される彼が廟堂を去ることになれば、日本中の士族を敵にまわすことは明らかでした。大久保が参議になって西郷と対決するためには、長州閥の長たる木戸孝允が新政府に留まることは必須条件でした。 木戸孝允の思惑 木戸は帰国以来、なにもかもに失望していました。留守政府に対しても、自分自身に対しても、また、大久保に誘われて使節団の副使になったことも後悔しており、さらに頭痛にも悩まされて自宅に引きこもっていました。 「自分は留守政府の諸先生から信用をうしない、自分もまた信用していないので、この機会に公私のことも考えてみたい」と伊藤博文宛の手紙で引退をほのめかし、月給から250円を「使節としての役目を十分につとめていない」と言って返納してしまいました。 こうした地位にも、金銭にも、まったく頓着しない長州閥の筆頭を、大久保はこの後も引きとめ、あるいは東京政府に連れ戻すのに非常に苦労しています。留守政府や国内の不平士族の間で湧き上がる征韓論に対する懸念にくわえて、木戸は長州派要人をめぐる紛争にも頭を痛めていました。とくに京都府参事槇村正直が小野組の東京転籍問題で司法省と対立していたことで、木戸は心痛していたのです。京都裁判所が命じた罰金刑に服さなかった槇村を捕縛して、拷問にかけるという話にまで発展していました。江戸時代でも士族の罪人に拷問刑はまれであり、「安政の大獄」で刑死した吉田松陰も拷問にはかけられていません。こうした司法省の強引なやりかたに木戸は憤慨していました。 槇村にしても親分(木戸)が日本を留守にしている間に、突然、司法制度が変わって、京都府の裁判権が奪われてしまったのですから、その剛直な性格もあって素直に裁判所の命令にしたがうことはできなかったのでしょう。太政官に直接訴えたのも、無理はなかったのです。 一方、井上馨は尾去沢事件を引き起こして官職をはなれましたが、江藤はさらに井上を捕らえて処罰するつもりでした。江藤は長州閥を政権から追い落とす企図をもち、「征韓論」で薩摩の西郷をも利用して薩長の離間を策していました。権力を掌握する者が「法の正義」の名の下に、刑罰の対象者をとことん追いつめてゆけば、罪人をすさまじい拷問にかけ、ついには拷問死させるという極端な事体も生じてしまうのです。木戸はその危険性を敏感に察知していました。 「臣孝允は刑罰を軽減、あるいは赦す『特命』があることを知る。しかし、加刑する『特命』はこれまで聞いたことがない。もし加刑する「特命」があるのなら、法律を用いる必要のないことは、童子も知るところである」 という木戸の意見書は同郷人の槇村ばかりでなく、のちには、この時期に槇村問題で木戸を悩ませた当の江藤新平をその刑死から救おうとする理由にもなったのです。それほど彼は公平な政治家でした。話がちょっと逸れましたが、木戸がある種の厭世観に捉われていったのも、病弱にくわえて、そうしたむき出しの抗争を好まない彼の穏やかな性格にもよったと思われます。 江藤新平の思惑および汚職史観の問題点 第三勢力は左傾化、あるいは極端に走るといいますが、江藤もまた例外ではないようです。彼の不幸はなんといっても維新政府では土佐につぐ第三以下の勢力に甘んじた佐賀藩出身だったということでしょう。維新前夜、幕府軍と対峙する薩長のもっとも苦しい時期に、容易に旗色を明らかにしなかった佐賀藩は、その日和見主義ゆえに維新後にはまとまった政治勢力になり得ず、長州あるいは薩摩に拠って自ら信ずる政策を実行する以外にありませんでした。それをよく認識していたのが大隈重信と大木喬任であり、才気ばしった自信家の江藤にも忠告はしていました。 しかし江藤は司法卿になった時点で自らの力と法の効力を過信し、薩長の主流派に勝てると確信してしまったようです。政府の同僚として、あるいは友人として、常に江藤に好意的だった木戸と会談し、直接意見を述べる機会も作らずに、薩長政権打倒の策略をめぐらしたことは、彼の権力欲をあらわす証左でもありましょうか。 実際、彼の司法改革はあまりに性急だったために、一般民衆の理解が十分でなく、相当な混乱を生じさせてしまったようです。司法改革にかぎらず、留守政府が功をあせって実施した諸改革に国民はついてゆけず、各地で農民一揆や暴動が相次いでいました。特に福岡では30数万人が蜂起し、県庁が放火され、家屋4千500軒が焼失、電柱180本が切り倒されたといいます。明治6年前半だけで実に10万8000人の処刑者(うち死刑が31人)を出していたのです。実際、とても外征どころではなく、内治を整えることに全力を注がなければならない状況でした。 江藤はまた大久保利通の実力を過小評価し、二重の誤算をして、破滅への道を突き進んでしまったようです。幕末の修羅場を体験しなかった者の弱みかもしれませんが、江藤の才能を愛し、新政府に推薦した木戸との関係をもっと大事にしていたら、彼の運命はかなり違ったものになっていただろうと、残念な気がします。彼が一時的にも自己の能力を発揮して政府を主導できたのも、薩長が支える政治基盤があったからこそなのです。確かに長州人は藩の特殊な環境もあって、幕末から金銭にだらしのないところはありました。 しかし、その一方で、お雇い外国人に頼らずに、日本の技術力を高めようと血のにじむような努力をつづけたかつての密航留学生、遠藤勤助(造幣の父)、井上勝(鉄道の父)、山尾庸三(工業・聾唖教育の父)など立派な業績を残した長州人たちも数多くいたわけです。汚職史観というフィルターをとおせば、それがすべてと勘違いして、ほかの面が見えなくなってしまいます。明治政府にも多面性があり、一面を見ただけで偏った評価をするべきではないことは、すべての政府、あるいは個々の人物に関してもいえることでしょう。 西郷隆盛の思惑および大久保との関係 西郷が朝鮮・台湾問題を担当していた外務卿副島種臣を押しのけても、自身の遣韓使節にこだわったのはなぜだったのでしょう。三条を口説き、板垣に助力を乞い、副島に直談判し、ついに使節の任務を自分に譲ることを承諾させてしまうのです。自分の手で朝鮮問題を解決させたいという純粋な思いと意欲はあったでしょう。そして、やはり徴兵令制定後の国内情勢が多分に影響していたのではないかと筆者は考えます。国民皆兵の理念を推進するなかで、誇りを傷つけられた不平士族たちをどう扱えばよいか――。政権主流派の不在中にそれを考えなければならなかったことに、彼の不運があったのかもしれません。 留守政府の監督役として日本に残り、1年5ヶ月もの間、大久保と離れしてまったことが西郷の不幸の始まりだったともいえます。当初の予定では使節団は10ヶ月余で帰国するはずだったのですが、大久保と伊藤が正式な条約改正交渉に必要な天皇の委任状を日本に取りに戻ったことなどから、米国や英国での滞在期間が大幅に延長され、結果的に帰国が遅れてしまったのです。もしこの遅れがなく、予定通り帰国していたら、西郷と大久保の遣韓使節派遣をめぐる対立と破局はおそらく生じていなかったでしょう。 大久保が西郷の朝鮮派遣に反対したのは、内治優先が第一の理由ではありましたが、それ以外にも配慮すべき問題がありました。それは西郷の尻馬に乗って、政権内における自己の勢力を拡大させようとする一派がいることでした。彼らにとっては薩摩人同士、さらに薩長間の争いは願ってもないことだったのです。西郷が好むと好まざるとにかかわらず、とくに士族階級に絶大な影響力を持つ彼を利用しようとする輩がでてくるのは、まだ基盤の弱い新政府でしたから当然のことだったもいえます。 西郷自身はなんら政治的野心のない純朴な人物ですが、いったん思いつめると周囲に与える影響も考えずに、突っ走ってしまうところがあったようです。情感豊かで、えらぶるところがない傑物も、いちど人を信頼すると、情勢を見極める判断よりも感情に流されてしまう――彼のモットーとする「敬天愛人」は人生哲学としては誠にすばらしいですが、それが政治の場に持ち込まれると、上記のような危うさにも繋がっていくのです。そうした西郷の危うさを、大久保は熟知していたでしょう。最初は大久保を説得しようと何度か話し合いを試みた西郷でしたが、二人の意見はかみ合わず、ついに喧嘩別れのようになって、それ以後、大久保を訪れることもなくなります。 二人がつぎに会うときは、副島とともに参議になった大久保が閣議において征韓派と対立する場面でした。大久保の参議拝命の条件として、三条と岩倉は「内治を先とし、朝鮮への特使派遣には反対する」という約定書を大久保に差し出すのですが、「自分の希望がとおらなければ辞任する」という西郷の脅しに屈して、彼の朝鮮派遣を認めて大久保を裏切ってしまいます。そして今度は大久保が辞表を提出します(このとき、木戸も人を介して辞表を届けている)。慌てた岩倉が重責に耐え切れずに人事不省に陥った三条に代わって太政大臣代理となり、岩倉邸に押しかけてきた西郷、板垣、江藤らと対峙することになります。 「拙者の眼の黒いうちは、卿らの思いどおりにはさせぬ」 と啖呵を切って、西郷の希望を退けてしまいます。その後、西郷以下、征韓派はみな辞任しています。 「岩公はにわかに今弁慶になりもした。よくも踏んばいもしたが、そげんなったのもつまい大久保、木戸の後盾があればこそでごわんそ」 岩倉邸の門を出るときに、西郷は笑いながらそう言ったそうです。 以上、急ぎ足で結果を説明しましたが、既述したとおり、詳細は小説のほうで書きますので、どうぞご納得のほどお願いいたします。 補記: 鹿児島に帰って私学校を設立し、鹿児島士族の結束を図った西郷の目的はなんだったのか? ある者たちは西郷が「維新のやり直し」、維新の精神を忘れて堕落しきった現政府官僚に対して「第二革命」をやるためだったと言います。しかし、「維新の精神」という極めてあいまいで抽象的な言葉を振りかざして新たな革命を成功させたとして、西郷に現実的な国家ビジョンというものがあったのでしょうか。 精神論だけでは実世界において確実に機能する国家は築けません。清廉潔白な人物が必ずしも政治家として優れているとはかぎらず、酒好きで遊び好きな放蕩家が、政治家としての資質に恵まれていないとはかぎりません。子供の積み木ではないのですから、自分も参加して築いたものを気に入らないからといって、壊してまた築くということを繰り返したとしたら、国民はたまったのものではありません。無益な血が流され、大金が消費され、やがて日本という国自体が衰弱して、西洋列強による植民地主義の餌食になってしまうのは、火を見るよりも明らかでしょう(私個人の意見としては、西郷の意図は別のところにあったと思っています)。 いずれにせよ、勝者は奢り、数多の政権と同じように、西郷政権もまた腐敗してゆくのです。のちの西南戦争は西郷崇拝者の過信が原因ともいえますが、そのために西郷自身も、万単位の兵を率いたまま東京に無事到達できると、自己の力を過信してしまい、結果的に身を滅ぼすことになってしまいます。西郷崇拝者の罪もまた大きいと言わなければなりません。 |