Special Theme 3<特別小論>


明治六年「征韓論」政変はなぜ起きたのか(2)

■ 本論

西郷隆盛は「征韓論者ではない」とする西郷擁護派がいます。彼らは山縣有朋や井上馨など長州要人の汚職事件をことさら大きく取り上げて、伊藤博文などが渋る大久保を担ぎ上げて、井上らの窮地を救うために留守政府首脳と対抗させたと主張しています。しかし、この説は明らかに「政変」の本質を逸らせるものと言わなければなりません。明治政府にかぎらず、政府高官の汚職は国、今昔の時代を問わず、現在においても起きていることで、とくに江藤新平が長州派を追い落とすために、これらの事件を最大限利用したということであって、「政変」劇の枝葉の話にすぎず、けっして本筋ではないのです。汚職はけっして許されることではありませんが、わき役である伊藤の働きなどを強調しすぎれば、この「政変」の見方をあやまることにもなりましょう。

最初の「西郷は征韓論者か」という話に戻りますが、この政変が「征韓論」政変といわれる所以は、必ずしも西郷のみの問題ではなく、西郷の背後にいる大勢の不平士族の存在を忘れてはならないと思います。また、江藤新平や板垣退助など当時の政府首脳の中にも征韓論者がかなりいたわけです。したがって、たとえ西郷が最初は征韓論者ではなかったとしても、朝鮮との交渉が不調に終われば、日本国内の征韓論が沸騰するのは明らかです。「征韓論」政変とはそうした国内状況全体を反映したものと考えるのが妥当でしょう。
西郷は「禁門の変」を戦い、「戊辰戦争」を戦ってきた軍人であることを忘れてはなりません。朝鮮との交渉の結果については、あらゆる可能性を想定して臨むのは当然のことですから、もし対外戦争となれば、陸軍大将たる彼が軍隊を指揮するわけで、本人もそうした心構えは当然持っていたはずです。西郷が謀殺(可能性としては低い)の危険を覚悟しても、遣韓使節にこだわったのは、国内の不平士族の爆発を抑えるために、自ら動かざるを得なかったという一面もあったのではないかと筆者は推測します。

なお、本論ではこの「政変」に関係する人物全員の行動や同時期に起きた事件について一々説明はいたしません。それをすると「小論」が「大論」になってしまうので、詳しい状況に興味のある方は、近々開始する予定の連載小説「明治六年秋」をお読みいただけたらと存じます。小説ではありますが、史実は史実として書くつもりです。

江藤新平はなぜ改革を急いだのか

既述したように、江藤が司法卿になったのは明治5年4月でした。のちに政敵となる井上馨(大蔵大輔)はこのとき、江藤の登用に賛成しています。大蔵省で働いていた渋沢栄一は「江藤は行政の人ではありません。制度調査の仕事がはまり役です」と井上に忠告しましたが、井上は意に介さなかったようです。使節団のメンバーである司法大輔佐々木高行は、江藤について「表面いかにも正直にて確乎たるようなれども、内心の狡猾なること実に恐るべき男なり」と評しています。

江藤は司法を独立させ、全国の裁判所を統轄するために、県令から司法権を取り上げ、日本人を等しく法の支配下におくことを企図します。それを実行できるのは、大久保、木戸といった薩長の巨頭が日本を留守にしている今しかないと思ったのでしょう。本来、司法制度の改革などは海外の制度を学んでくる使節団が帰国してからやるべきことですが、それでは新政府の実権を握ることはできません。江藤は政治家として大きな賭けに出たということができましょう。

その後について簡単に述べますと、緊縮財政をとる井上と区裁判所を整備したい江藤は予算をめぐって対立し、緊縮財政に不満をもつ文部省、工部省からも非難の声が上がって、予算がたてられない状況になっていきます。参議の西郷は鹿児島へ帰国中で、他の参議たち(板垣、大隈)も積極的に諸省間の調整に乗り出そうとはしませんでした。さらに台湾出兵問題が発生して、その対応に困った太政大臣三条実美が木戸、大久保に帰朝を命じる勅命を出すことになります。

ところが2人が帰国する前の明治6年4月19日、留守政府は江藤新平、大木喬任、後藤象二郎を参議にして体制固めをしたのです。江藤はすぐに法規を改正して予算の決定権を大蔵省から正院(参議、大臣からなる)に移し、無力になった井上と渋沢を辞職に追い込んでいます。彼は「長人は狡猾にしてくみし難く、薩人は愚鈍にしてくみし易し」と公言しており、「征韓論」と「司法権」を武器に長州閥の打倒を企てていたことは、だれの目にも明らかでした。

大久保はなぜ参議になることを躊躇したのか

この「政変」において大久保は非常に困難な立場にありました。第一に対立する相手が竹馬の友である西郷であること、第二に「反征韓」派の陣容がまったく整っていなかったからです。明治6年5月26日に帰国した大久保は、留守政府が約定に違反して、人事と制度を大幅に変更していたことにひどく失望していました。内心は怒っていたのでしょうが、洋行派も条約改正交渉に失敗して、あまり大きな顔をして帰国できる状況ではありませんでした。この時点における留守政府の参議を以下に記してみましょう。

明治6年5月時の正院参議メンバー 出身藩
西郷隆盛(近衛都督、陸軍大将)
板垣退助
大隈重信(大蔵省事務総裁)
  以下は新参議
江藤新平(司法卿)
大木喬任(文部、教部卿)
後藤象二郎(左院事務総裁)
薩摩
土佐
肥前

肥前
肥前
土佐

こうしてみると、長州人の参議は外遊中の木戸孝允を除いて一人もいません。ほとんど土肥内閣が成立したといってもよく、その中でも政治上の実権は江藤、大隈が握っていたのです(江藤は約定書に署名した18人のメンバーにも入っておらず、異例の昇進だった)。5月始めには各省の権限を削って正院に集中させ、一切の政務は参議の審議を要することに規則を変えました。とくに大蔵省の権限は大幅に縮小されており、大蔵卿大久保の帰国直前に大慌てでやったという観は免れません。留守政府はこれを潤飾としていますが、とても潤飾どころではなく、約定書の署名者の一人黒田清隆は激怒して自分の署名を切り取ってしまったといわれています。あまり詳しく書くと先に進まなくなるので、当時の説明はこれくらいにして、主題の「征韓論政変」に移ることにいたします。

西郷を使節として朝鮮へ派遣することは、8月17日の閣議で決定しました(この決定も約定違反といえる)。でも天皇は「岩倉具視大使の帰国を待って熟議し、さらに奏聞すべし」とお答えになったので、正式な決定は延期されました。さすがにこれほどの重大事を留守政府だけで決定するのはまずい、と太政大臣三条実美は思ったのでしょう。征韓派対非征韓派(内治派)の攻防は岩倉大使が帰国する9月13日以降になるわけですが、大久保を参議にしなければ、征韓派に対抗することはできません。

大久保より遅れて7月に帰国した木戸孝允は当然内治派で、征韓論に反対していましたが、病気を理由に閣議には一度も出席していませんでした。実際、木戸は頭痛や左足の麻痺などにみまわれて、一時は外出できないほど健康を害していました。そのうえ外遊中に大久保とは不仲になっており、内治派はまずこの2人を協力させる必要がありました。


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