Special Theme 3<特別小論>
■ 序論 明治6年(1873)に起きた「征韓論」政変については、歴史家の間でもその解釈をめぐって論争が生じておりますが、筆者も在野の研究者として未熟ながら、この問題を取り上げてみようと思います。 この政変は西郷隆盛と大久保利通の対立として語られることが多いのですが、その全体像はそれほど単純ではなく、維新以来、政府内で主導的役割を果たしてきた大久保、木戸ら政権主流派と、いわゆる「留守政府」と呼ばれる肥前・土佐藩出身者を中心とする非主流派の主導権争い、ということができましょう。したがって、最初からどちらが正しく、どちらが正しくない、というような視点で見るべきではなく、歴史的事実を先入観を排して冷静に考察する、という姿勢でのぞむべきだと思います。 西郷は朝鮮の英雄ではない 一部の歴史家は「もし西郷が使節として朝鮮に派遣されていれば、日朝間の懸案はきれいにかたづき、両国関係は好ましい状態になっていただろう」と楽観的に語っています。しかしこれでは桐野利秋のように西郷崇拝論者の域を脱せず、現実的な見方とはいえません。朝鮮側が指摘している問題が解消されないかぎり、「はい、そうですか。それでは開国して、日本と外交関係を樹立しましょう」と、そう簡単にいかないのは明らかです。相手は中国(清)を宗主国とあおぎ、天皇の呼称すら問題にして、日本の維新政府を認めていないのですから、西郷が10人派遣されようが、100人派遣されようが、あの時点で譲歩するわけがないのです。西郷は朝鮮の英雄ではないのですから、西郷が行きさえすれば全知全能の神のようになんでも可能になると考えるのは、大人の思考とは思えません。 また、「西郷の朝鮮派遣はすでに閣議で決定されていたのに、大久保らが強引な手段をもってこれを阻止した」という非難も感情的で片手落ちではないかと思います。そもそも、この政変は留守政府の約定違反に端を発するといっても過言ではないのですから、大久保らの強引な手段を非難するなら、留守政府メンバーの約定違反も非難されなければなりません。しかし「どちらが悪いのか」というのは不毛な議論で、両サイドとも政権の主導権を握るために、智略を尽して戦ったということに変りはありません。こうした権力争いはけっして悪いことではなく、むしろ無風状態のほうが恐いし問題ではないでしょうか。権力争いといっても、それぞれが自己の政策を実現したくて政敵と戦うわけですから、その真剣度は評価してやるべきでしょう。 「政変」の陰の主役、江藤新平 「征韓論」に最も積極的だったのは佐賀藩出身の江藤新平でした。江藤はかねてより薩長閥が牛耳る新政府に不満をもっていました。したがって、大久保、木戸ら主流派の外遊は、彼にとっては自己の政策と野望を実現する千載一遇のチャンスだったのです。そこで、明治5年4月に司法卿になると、江藤は司法権の集中と独立を図ります。まず、長州出身の宍戸環を教部大輔に転出させ、代りに土佐の福岡孝弟を入れますが、この人事異動は土佐人を味方につけておく策と思われます。そして、全国の裁判所、さらに検事局と警察をも司法省の管轄下において、法を通じて新政府の実権を握ろうとするのです。さらに太政官の規則を「立法・行政の諸事は参議の談判によって決定する」ことに改めて、大蔵省から予算の決定権を奪ってしまいます。彼はもともと三権分立論者でしたが、自分が参議になると、三権の大部分を正院に従属させたのです。 留守政府はなぜ約定違反をしたのか? では、留守政府のメンバーはどうして約定違反をしたのでしょうか。それを語る前に両陣営の主なメンバーを確認しておきましょう。
使節団渡航前に使節団首脳と留守政府の主要メンバーが交わした契約事項は十二か条あり、官制の改革、大官の任命は使節団がもどるまで行わないことが明記されていました。留守政府がしていいことは、同年に実施された廃藩置県に関する残務処理だけでした。それにもかかわらず、身分制の改正、学制公布、太陽暦の採用、徴兵令、地租改正などが次々に実施されていきます。でも、こうした政策の実施について、使節団首脳が反対したような形跡はありません。おそらく廃藩置県後の封建制度を一掃する既定路線だったのでしょう。 では、なにが問題なのかというと、やはり大官の任命と太政官制の改定ではないかと思います。それは海外視察中の主流派が留守の間に、政権奪取を目論んだ非主流派の謀略といえますが、自らの政策に自信を持ち、野心ある政治家なら当然の行動であったでしょう。しかし彼らだけではとても大久保らに太刀打ちはできません。そこで西郷隆盛がこの政変のキーパーソンになるわけです。以下長くなるので、本論として次回にもちこすことにいたします。 |