Special Theme 4<特別小論>


幕末の歴史をつくった

長州藩と水戸藩  奇跡の点と線(1)

■ 序論

筆者が幕末の歴史を学びはじめたころ、どうにも不思議でしょうがなかったことがあります。その一つは、尊皇攘夷の思想がなぜ徳川家の親藩である水戸藩に起こったのかということ。いま一つは、その尊攘思想を介して、どうして親藩の水戸藩と外様藩の(それも徳川家とは最も因縁のある)長州藩が水面下で盟約をむすび、幕末から維新に至る尊攘活動をリードしてきたのかということです。水戸藩は徳川御三家のひとつであり、当然、幕府を守る立場にあります。一方、長州藩は毛利氏が支配する藩であり、その毛利氏は関ケ原の戦い(1600年)で西軍(豊臣方)の総大将を務め、東軍(徳川方)に敗れて、中国十カ国の太守から防長二カ国に減封され辛うじて生き残った藩です。

距離的にも遠いこの二藩が、藩士レベルとはいえ、「成破の盟約」(万延元年)をむすび、水戸天狗党が滅びるまで(元治元年)、密かに協力して活動してきたことは歴史が証明するところです。水戸の尊攘派は自ら滅びるまで盟約上の『破』の務めを壮絶なまでに果たし尽くし、長州の尊攘派は明治維新を達成したことで、その『成』の役割を見事に果たし終えたことになります。たとえ水戸尊攘派が倒幕を目的にしていなかったとしても、尊皇攘夷の思想を純粋に実現しようとすれば、行き着く先は倒幕以外にありえないことも、歴史が明白に語っています。そうした史実も含めて、水戸藩と長州藩は幕末において誠に数奇な運命を担っていたと言えるでしょう。

では、この二藩がどうして結びついたのか。九州に近い中国地方の一藩と、関東も江戸以北に位置する一藩が、どのように協力できたのか? 本論ではその点と線がつながる所以を解き明かしていこうと思います。

■ 本論
まずこの二藩の交際についてですが、調べてみると、幕末の日本を騒乱の渦中に投げ込んだ米使節ペリー来航(1853年)以前から、藩士同士の交流がはじまっていたことがわかりました。でも、それを語るまえに、両藩の共通点である勤王の思想について触れてみようと思います。

長州藩は伝統的に勤王だった

水戸藩(35万石)は、二代藩主徳川光圀(水戸黄門で知られる)が「大日本史」の編纂に着手し、以後250年の歳月をかけて明治39年(1906)に全37巻を完成させました。水戸ではこの大編纂事業によって天皇家への忠誠心が培われ、尊王の思想が育まれていったのです。これに幕末の攘夷思想が加わって「水戸学」とも言われることは、ご存知の方も多いでしょう。

一方、毛利氏の長州藩(36.9万石)ですが、この藩も幕末に突然『尊王』になったわけではありません。毛利氏の祖を鎌倉時代まで遡りますと大江広元(1148〜1225)に行き当たります。実は大江氏は武家ではなく、学問をもって京都の朝廷に仕えていました。源頼朝が政治顧問として広元を招いたとき、腐敗した貴族政治に失望していた広元は鎌倉にくだり、公文所(のちの政所)別当となり、草創期の鎌倉幕府の政治・行政面の整備に功績をあげました。

大江氏は天穂日命(あめのほひのみこと)の子孫とされ、姓は野見(のみ)、土師(はじ)、大枝(おおえ)と変わり、28代音人(阿呆親王の王子、平城天皇の孫とされる)のときに大枝を大江に改めました。音人(おとんど)から代々朝廷に学問や文芸で仕え、学者や名歌人(大江匡衝・赤染衛門夫妻など)を輩出し、「江家」(ごうけ)と呼ばれました。広元は匡衝の曾孫にあたります。したがって、毛利氏は家系は神別、血筋は皇別と伝えています。

そのため毛利氏は江戸時代に入ってからも、朝廷に対して年末・年始などの貢献を絶やすことはなかったのです。幕府は諸大名が朝廷と直接関係をもつことを禁じていましたが、毛利氏に対しては旧来の関係を認めて、伝奏を勧修寺家が務めることを許可しました。また、参勤の途上に京都に入って有栖川宮、鷹司、近衛などの諸卿を訪問することも黙認しました。少々意外な気もしますが、幕府も毛利氏の血統を配慮したのでしょうか。朝廷との特殊な関係を認めざるを得なかったのでしょう。
「広元以後はじめて武門に列せり故をもってその帝京を瞻望(せんぼう)するの情はほとんど万里の異客が故山を追慕する如きものありて、尋常の武門武士の比にあらざるなり」
とは「防長回天史」の記すところです。

こうしてみてくると、長州藩の「勤王」は一朝一夕に生じたものではないことがわかります。長州藩士が水戸藩の尊王思想に惹かれたのも当然のことと思えますし、水戸藩の尊攘派が盟約の相手として長州藩に目をつけたのも納得がいくのです。また、幕府と対立した朝廷が攘夷の実行について、とりわけこの二藩に頼ったことも頷けるでしょう。

両藩士が接近する過程で、剣豪斎藤弥九郎の「練兵館」が重要な役割を演じていたことなどを含め、両藩の関係人物、著作などについては、次回の「交際編」で語ることにいたします。


補記: 水戸学について
水戸学は前期と後期にわかれ、前期は朱子学の歴史観に基づき、大日本史編纂事業の『大義名分』論で皇室尊崇を説いている。後期は頻々と現れる外国船の脅威によって国防意識が生まれた幕末期の論で、天皇の下に全国民が結束する『尊王攘夷』論が確立され、単に水戸学という場合は後者を指している。



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