Special Theme 4<特別小論>
■ 長州藩士と水戸藩士の交流はいつ、どこで始まったのか 幕末には多くの藩校がつくられ、その数は250を超えていました。水戸藩では九代藩主・徳川斉昭(なりあき)によって天保12年(1841)に弘道館(敷地面積:5万4千坪。馬場、射撃訓練場等を含む)が建てられ、初代総教には会沢安(正志斎。藤田幽谷の直弟子)、青山延宇(のぶゆき)が任じられました。その前にも二代藩主・光圀がつくった「彰考館」がありましたが、藩士の教育施設というよりも「大日本史」の編纂を主とする施設でした。 弘道館の落成式には、斎藤弥九郎が千葉周作(北辰一刀流)らと共に招かれ、門人数名を伴って水戸を訪れて、藩士に剣術を指南し、模範試合も行いました。しかし、この時が水戸藩との交流の始まりではありません。 前藩主・徳川斉脩(なりのぶ)が病床にあったときから、水戸藩ではすでに継嗣をめぐって御家騒動が生じていました。斉脩には男子がおらず、兄弟のうち二人は他家の養子に入っており、残っていたのは弟の敬三郎(斉昭)のみでした。しかし、江戸家老などの門閥派は将軍家斉の二十番目の子、恒之允(つねのじょう。当時は御三卿のひとつ、清水家当主)を養子に迎えようと画策していました。 この状況に危機感を抱いた藤田東湖(虎之助。当時24歳で「彰考館」総裁の代役職にあった)は、なんとか敬三郎を世子にするべく、数十人の仲間とともに無断で江戸にはしり、水戸一門の守山藩主をたよりました。その夜半に、彼らは飯田町の斎藤弥九郎を訪ねて一晩の宿を請いました。実は、東湖と弥九郎は岡田十松の道場「撃剣館」(現・千代田区猿楽町)の同門だったのです。藤田幽谷がまだ少年だった東湖を伴って出府の際に、岡田道場の門をたたき、息子を岡田に預けました。すでに水戸に進出していた神道無念流の道場(十松の弟子、宮本左一郎主宰)に入門していましたが、撃剣館の荒稽古には衝撃をうけ、東湖はいっそう文武両道に励むようになりました。のちに弥九郎と入魂となる江川英龍(太郎左衛門。のち伊豆韮山代官)、渡辺崋山も岡田道場の門人でした。 そんなわけで、岡田道場の高弟であった弥九郎が文政9年(1826)に開いた「練兵館」にも水戸藩士が多く入門してきました。嘉永2年(1849)に弥九郎の長男新太郎が諸国巡歴の途中に萩に立ち寄って、江戸遊学の益するところを説いてからは、長州藩士が萩から江戸に出て、練兵館に入門する流れができました。つまり、物理的には、斎藤道場が西国の外様藩である長州藩と、関東北部に位置する徳川親藩である水戸藩を結びつける重要な役割を果たしていたことになります。両藩とも歴史的に勤王の志あつく、なかでも塾頭となる長州藩士・桂小五郎は、改革派の水戸藩士と深いつながりを持つことになっていきます。 ■ 水戸藩主「烈公」斉昭の活躍と退陣 小五郎を含む最初の長州藩士6名が江戸に着き、斎藤道場に入門したのは嘉永5年(1852)11月のことでした。以後、品川弥次郎、井上勝、山尾庸三、太田市之進などが入門し、吉田松陰、高杉晋作も練兵館を訪れました。松陰は嘉永4年に東北を旅した際に水戸にも立ち寄って、会沢らと面会しています。 水戸藩の跡目争いにもどりますが、敬三郎を継嗣とする斉脩の遺書が発見されたことから、藤田東湖がわが勝利して、文政12年(1829)に敬三郎が九代藩主斉昭となりました。新藩主は会沢、藤田らを重用して財政、教育、検地の実施など、藩政改革を推進してゆきました。では、斉昭はなぜ「烈公」と称され、尊王攘夷の元締めのようになっていったのでしょうか。 外国船は、ペリー来航(嘉永6年、1853)以前から日本沿岸に何隻も出没しており、長い海岸沿いに領地を有していた水戸藩は当然ながら、外国船の接近に脅威を感じて海防意識を高めていきました。斉昭は海岸近くに海防城をつくり、太極砲という巨砲を鋳造して軍備を強化し、大規模な軍事演習も行ないました。しかし、これが幕府にあらぬ嫌疑を抱かせたようで、弘化元年(1844)、斉昭は隠居・謹慎に処せられ、子の慶篤(よしあつ)が第十代藩主となりました。一説には斉昭は仏教が大嫌いで、没収した260もの寺領から集めた仏像や鐘を潰して大砲を造っていたことから、幕府の怒りをかったとも言われています。 側近の藤田東湖、戸田蓬軒も蟄居・謹慎処分となり、改革派が衰退したあとは、結城寅寿(とらじゅ)などの保守門閥派が勢いづいて、藩政を牛耳ることになりました。なお、「天保の改革」を主導した幕府老中・水野忠邦は前年にその失敗の咎により失脚しています。 斉昭の謹慎が解かれたのは八か月後の同年11月で、意外に早かったのは、一部の家臣が江戸に乗りこみ、嘆願運動を行ったからでした。主導したのは武田耕雲斎(彦九郎)、吉成又左衛門、高橋愛諸(ゆきちか)らで、老中の役宅に押しかけて嘆願書を差し出し、受け付けされるまでは一歩も引かぬ強引な態度を示したことから、致仕・謹慎に処せられてしまいました。彼らは江戸に到着後、斎藤弥九郎をたずねて相談しており、弥九郎の手配した場所に一時潜伏していたようです。のちに家臣らの脱藩上京を知った斉昭は弥九郎に手紙を書いて、家臣らの忠節には胸打たれるが、無茶をせず早々に帰国するように、行方を捜して説得してほしい、とその心中を打ち明けて協力を求めています。幸い、老中に復帰していた水野忠邦が、最終的に斉昭の謹慎解除を決定したので、武田らも許されて復職しました。武田はこの後、桂小五郎など長州藩士らと接触し、水戸の尊王攘夷運動に深く関与することになります。 幕府の斉昭らに対してとった処置は天下の物議をかもし、かえって斉昭の声望を高めることになったのです。 斉昭が幕政の表舞台に登場するのは、米国使節ペリーの浦賀来航(1853年6月)後のことでした。すでに水野は失職して、阿部正弘(福山藩)が老中首座についており、幕府だけでは対処しきれないとみた阿部は、幕吏や諸大名から意見を募る一方で、7月には斉昭を海防参与に任じました。阿部が斉昭を起用したのは、すでに斉昭は諸大名や有識者とみられる武士、いわゆる「志士」たちに人望があったからです。彼は藩主になってから、大船建造の解禁、蝦夷地開拓、財政整理など、徳川御三家の強みを発揮して、様々な意見を幕府に提出していました。こうした斉昭の積極的な行動をみて、尾張藩主・徳川慶恕(よしくみ)、越前・松平慶永(春嶽)、薩摩・島津斉彬(なりあきら)、佐賀・鍋島斉正(なりまさ 閑叟)、宇和島・伊達宗城(むねなり)などが頼もしく思い、斉昭を支持するようになっていたのです。 斉昭は、ペリーの開国要求を拒否せよ、という意見で、あくまでも攘夷論を譲りませんでした。水戸製の大砲74門を幕府に献上もしました。しかし翌年、日米和親条約が調印され、その後、堀田正睦(まさよし 佐倉藩)が老中首座になると、開国論者の堀田と対立して、海防参与を辞任してしまいます。斉昭は朝廷に働きかけて、「開国すれば、夷狄が京都に侵入するおそれがあり、武士のいない京都は危険である」と言って、彼らの恐怖心をあおりました。斉昭の妻は有栖川織仁親王の王女登美宮(とみのみや)吉子で、斉昭の姉清子は鷹司政通に嫁いでおり、斉昭の母外山氏も公卿出身だったので、もとより朝廷との繋がりが深かったのです。その後、安政5年(1858)4月に大老に就任した井伊直弼(彦根藩)が、同年6月、攘夷派の反対を押しきって日米修好通商条約を締結してしまいました。 しかし、この条約は天皇の勅許なくなされたことから問題となり、堀田が上洛して勅許を得ようと努めますが、すでに攘夷論が大勢を占めていた朝廷を説得することはできませんでした。斉昭は日米通商条約の無断調印に関して、不時登城して井伊を詰問したことから、再び蟄居謹慎を命じられました。子のいない将軍家定の継嗣問題でも、一橋慶喜(斉昭の子)と紀州慶福との争いで、井伊は慶喜をしりぞけ、慶福を次期将軍(家茂)に決めており、斉昭を過激な水戸の隠居として嫌っていました。斉昭は翌安政6年8月には水戸へ永蟄居に処せられ、再び幕政に関与することなく、万延元年(1860)8月、水戸城中で急死(心臓発作か)しています。享年61、諡(おくりな)は烈公。 斉昭は政治の表舞台から去り、没しましたが、水戸藩の尊攘派はしっかり生き残っていました。 補記: 水戸の尊王攘夷論は藤田幽谷の『正名論』(1791)、会沢正志斎の『新論』(1825)、藤田東湖の『弘道館述義』(1845)などで知られていますが、斉昭がその象徴的な存在として目立ったのは、水戸家の主(あるじ)としては当然のことだったでしょう。しかし、斉昭は将来的な開国を視野に入れており、軍備強化、国民の一致団結を促すための準備期間が必要だと考えて、『攘夷論』の親玉に徹していたようです。なお、各人物、事変などの詳細については、「人物紹介」や「木戸孝允への旅」をご覧ください。 |