Special Theme 4<特別小論>
■ 桂小五郎が交わった水戸藩士、最初の人物はだれか 水戸藩士ともっとも深いかかわりを持った長州藩士は、やはり『練兵館』で塾頭を務めた桂小五郎だったでしょう。小五郎が江戸遊学生のひとりとして斎藤弥九郎道場に入塾した経緯については、「木戸孝允への旅」などですでに語っていますのでここでは触れません。そこで最初に交流を持った水戸藩士は誰だったのか? 同道場への入塾日は嘉永5(1852)年11月25日で、小五郎、満19歳の時でした。翌年の元旦からおよそ半年間、小五郎は日記(『日々記事』)をつづっており、そこに常州生れの袴冡行蔵という人物の名が出てきます(最初は正月二日)。彼は藤田東湖の門人で、塾生中は小五郎と共に撃剣に励むいっぽう、学問・古詩を論じ、試作を為し、世事や海防について談じていたことが、同日記からうかがわれます。 小五郎が水戸藩士と交流を持った最初の人物はこの袴冡行蔵であったと推察されます。なお、この人物は維新後の明治3年9月15日に、(桂小五郎改め)木戸孝允を訪ねて旧事を語り合ったことが、同日の木戸孝允日記に記されています。 ■ 『桜田門外の変』前後における小五郎と水戸藩士との交流 『桜田門外の変』(大老・井伊直弼暗殺)は万延元年(1860)3月3日に、水戸浪士らが起こした大事件でした。藤田東湖はすでに安政2年(1855)10月に起きた江戸大地震の犠牲となって死亡しています。小五郎は尊王攘夷の大義を説いた東湖の名声を知り、面会を望んでいたようです。東湖の不慮の死によってその希望を果たすことはできませんでしたが、知人の水戸藩士から東湖の揮毫した書幅(『忠義塡骨髄』)を得て、これを終生大切に所持していました。 斎藤道場の塾頭となった小五郎は弥九郎にしたがって、小石川の水戸藩邸にもしばしば出入りしており、当時、江戸詰の若年寄を務めていた武田耕雲斎とも面識がありました。その耕雲斎が『桜田門外の変』が起きた翌月に小五郎を自邸に招いて会談しています。なにが話し合われたかを知る史料は残っていませんが、水戸浪士の義挙をうけて、長州藩の尊攘派がなんらかの行動を起こす意志があるのか、探りを入れたのかもしれません。 前年に下された攘夷の密勅(木戸孝允への旅『安政の大獄』参照)に関しては、返納を迫る幕命に耕雲斎は反対していました。幕府の弾圧が激化するなかで、水戸の尊攘激派は西南雄藩に使者を送って奉勅蹶起を促しましたが、どの藩からも賛同の返事は得られなかったのです。長州藩には関鐡之介(のちの『桜田門外の変』参加者)と矢野長九郎が来たのですが、そのころ、藩では吉田松陰が老中間部要撃計画の咎で獄中にあった時期であり、とても幕府に逆らえる状況ではありませんでした。 藩の内情を考えれば、『桜田門外の変』後の会談においても、小五郎が耕雲斎に色よい返事ができたとは思えず、長州藩への期待が大きかった武田は失望したかもしれません。 ■ 水長密約( 丙辰丸盟約)にかかわった水戸・長州藩士 『桜田門外の変』(1860)と同年の7月に、長州藩と水戸藩の藩士とのあいだで『成破の盟』が結ばれました。丙辰丸の船上での密約とされていることから、『丙辰丸の盟約』とも呼ばれています(最後の会談場所は有備館の舎長室だった)。長州がわの出席者は桂小五郎ひとり、水戸がわの出席者は西丸帯刀、越総太郎、岩間金平、園部源吉の4人でした。幕政の刷新をするための破壊と、尊攘の大義を打ち立てる活動と、二つの役割を分担して事をなす盟約をしたのです。交渉の経過については上記の小見出し(「木戸孝允への旅」の中)にリンクを張っていますので、興味のある方はそちらをご覧ください。 ■ 『坂下門外の変』における水戸藩士と小五郎のかかわり 文久2年(1862)1月15日に、水戸浪士4人を含む6人の尊攘志士たちが坂下門外にさしかかった老中安藤信正の行列を襲撃する、という事件が起こりました。籠内の安藤は外から背中を斬りつけられましたが、軽傷ですみ、襲撃者は全員その場で斬殺されました。 事件当日の昼ごろ、ひとりの若い武士が有備館に小五郎を訪ねてきました。安藤襲撃に参加するはずだった川辺左治右衛門という水戸浪士でしたが、遅刻して間に合わなかったのです。彼はそれを恥辱と感じて、小五郎が席をはずしている隙に、その場で切腹してしまいました。長州尊攘派のリーダーとして、桂小五郎の名は知られており、この計画に関して相談も受けており、川辺はその内情を知っていたのでしょう。 長州藩邸内での水戸浪士の自刃を知って、幕府は小五郎に疑惑の目をむけました。かねてから、水戸藩士が長州藩邸に出入りしていることは、密偵を使ってつかんでいたのです。ついに小五郎は北町奉行所に拘束されてしまいました。吉田松陰につづいて、第二の犠牲者が出るのではないかと、有備館生たちは危機意識を募らせました。 その間の経緯については、既述した記事と重複しますのでここでは触れません。本事件をあつかった「木戸孝允への旅」をご覧ください。 『坂下門外の変』 『ある水戸浪士の死』 『小五郎を救え』 ■ 水戸天狗党と小五郎のかかわり 「天狗党」のリーダーは藤田東湖の四男で、若干22歳の藤田小四郎でした。彼は東西呼応の攘夷挙兵計画を実現するため、元治元年(1864)3月に筑波山に挙兵。眼下に関東平野がひろがる標高877メートルの山の中腹にある護寺院の松に『尊王攘夷』の旗がひるがえりました。水戸学・尊王攘夷論を全国にひろめた藤田幽谷を祖父、藤田東湖を父として、その宗家に生まれた誇りと栄光を担って彼は蹶起したのです。 実は、この水戸天狗党にも小五郎が裏で関与していました。小四郎は前年の文久3年3月に、将軍家茂の上洛に随伴する水戸藩一隊に加わって京都を訪れていました。当時は幕府の威光が衰えて、全国から集まってきた攘夷派志士たちが大手を振るって市中を闊歩していた時期で、その活動の熱風を受けて、小四郎は大いに刺激されたようです。在京中は各藩の志士たちと交流し、桂小五郎、久坂玄瑞など長州の尊攘派にも接触しました。 志士たちが自分を「東湖先生の御子息」として重んじてくれたので、嬉しさもある反面、大きな責任を感じるようにもなりました。できるなら自分も京都にとどまって、彼らと行動を共にしたい。そんな気持ちを断ち切っていったんは帰国しましたが、小四郎の想いはつのる一方でした。 しかし、5月には攘夷実行のため長州藩による外国船砲撃があり、その後、京都の雲行きがあやしくなってゆきます。8月18日、薩摩藩と会津藩が組んでクーデターを起こし、長州藩を京都から追放してしまったのです(「堺町御門の変」)。この事変と前後して、攘夷派による「天誅組の乱」(大和で挙兵)、「生野銀山の変」が起きていますが、追討軍に追われて壊滅しています。「八・一八政変」とも言われる長州藩の追放以降、各藩の勤王党は弾圧をうけはじめて、厳しい冬の時代が訪れていました。 こうした西国の状況を知って、小四郎はあせります。今こそ行動を起こすべき時ではないか? 水戸には「天狗党」という、現状に不満を持つ下士層の集団がありました。保守門閥派(「諸生党」)に対抗する改革派勢力で、藤田東湖の唱える尊攘思想を奉じていました。その同志のひとりが、自分たちを「太平記に出てくる六本杉の天狗のようだ」と言ったことから、「天狗党」という異名が生じました。 小四郎はこの天狗党を中心にして旗揚げし、関東各地の同志を糾合しようと考えたのです。しかし、「天狗党」の首領ともいうべき武田耕雲斎は、小四郎の説得には応じませんでした。武田は挙兵の名分と計画のあいまいさを指摘して、無謀であるとして同調しなかったのです。それでも小四郎は屈せず、町奉行で60歳の田丸稲之衛門の賛同を得て首領とすることに成功しました。武田も最後には小四郎軍に合流することになるのですが、以後の話も重複しますので「木戸孝允への旅45 天狗党の悲劇」をご覧ください。 さて、水戸藩士と小五郎とのかかわりですが、小四郎が京都で小五郎と面会した際に、いかなる話をしたのかは定かでありません。それ以前、文久3年1月下旬に小五郎は列公・斉昭の墓参を目的に水戸を訪れています。しかし、当時は将軍上洛に随伴する水戸藩主慶篤に扈従せんとする多数の藩士が紛争を起こしており、城中混乱して尊攘派との会見が計画どおりにいきませんでした。したがって、小四郎との会見もなかったと思われます。 前年に小五郎は、密勅の返納問題をめぐって賛成派から排斥されて謹慎中にあった反対派の武田耕雲斎、大場一眞斎らの救済について尽力を請われ、周旋に努めたことがありました。その後、武田らは復職しており、改革派からその労を謝した手紙を受け取っています。他の件でも小五郎に相談し頼るところが多かったようです。 小五郎は人を介して、水戸天狗党に千両を送っており、東西呼応しての挙兵計画については、どこかで話し合われていたと思われます。その後、長州藩は「禁門の変」(元治元年7月)に敗れて、藩自体が存亡の危機に陥ってしまい、悲劇の一途をたどった天狗党を救うことはできませんでした。しかし、長州藩と水戸藩の藩士同士が結んだ『成破の盟』は多くの困難と犠牲を伴いながらも、すこしずつ、確実に実を結び、「明治維新」という見事な華を咲かせる結果となりました。(終) 関連する他の記事・人物紹介: 「武田耕雲斎夫人と子供たちの悲劇」 「人物紹介・水戸藩」 |