木戸孝允への旅のおわり 125(最終回)


維新編(明治10年)


● 白雲を望む - 木戸孝允、京都に死す

 西南戦争勃発の初期より、木戸は自ら戦地に赴くことをひたすら望んでいました。彼は西郷に直接会って説得したいと思っていたのです。大久保へは「この戦争においては、たとえ百敗するとも、こちらが斃れて力尽きるまで戦わなければなりません」と言いながら、西郷と薩長同盟を締結した昔の場面を思い浮かべたのでしょうか。胸襟を開いて話し合えば、西郷は自分の話を理解して戦いを止めてくれるのではないか、いや、きっとわかってくれる、と自分に言い聞かせていたのかもしれません。もはや交戦中の敵の大将と会えるはずもなく、代わりに、性質、政見を異にする大久保と廟堂にあるよりはむしろ、九州の戦場で薩人の弾に当たって死にたいという願いも、聞きいられるはずはありませんでした。

 別働隊による八代上陸の案が実行に移されることを知ると、3月24日、木戸は一旦はあきらめた戦地への派遣をまたもや三条に願い出ています。しかし、このころは胸痛に悩まされ、侍医伊東方成の治療を受けて症状を緩和させている状況でした。木戸はもう自分の命が長くないことを悟っており、鹿児島の問題がかたづくまでは死んでも死にきれないという思いから、自分の意見を発せずにはいられなかったのでしょう。たとえば、兵力補充のために士族を徴用することに木戸は反対していました。戦時には必要でも、終われば余剰兵力を抱えることになり、国家にとって重荷であり弊害となり得ることを、彼はこれまでの経験から痛いほどわかっていたのです。

 兵の徴募の代わりになされた巡査の採用は、こうした木戸の意見が反映された結果だったでしょう。この巡査隊の活躍もあって田原坂が陥落し、八代上陸の背面軍も川尻を突破して4月15日に熊本入城を果たしたことで、木戸は大いによろこび安堵しました。この時点で、大方の者は政府軍の勝利を確信したでしょうが、巷では「休戦論」なるものが生じていました。これは「大久保・西郷の私闘論」を根拠として、旧薩摩藩主の島津久光・忠義父子によって意見書が提出されたことから、政府にとってはかなりやっかいな問題になっていました。喧嘩両成敗の立場から、政府は第三者として双方を公平に審判すべしという趣旨で、旧主として、西郷にも大久保にもおもしろからぬ感情を抱いていた島津らしい意見ではありました。

 しかし、こうした意見は島津だけでなく、福沢諭吉も郷里の藩士(旧中津藩)たちの名を借りて、同様の意見を政府に提出しています。意外なことに、木戸も「休戦論」はともかく、「喧嘩両成敗」論には理解を示していたことが彼の日記からうかがえます。4月24日に二人の薩摩人(内田清風、山本孫九郎)が木戸を訪ねてきました。この二人は、意見書を携えて上京してきた島津公の子息に扈従してきた者たちです。どうやら木戸を味方につけようとしたらしいのですが、彼は島津の「休戦論」には同意しませんでした。しかし、この内戦を招いたのは、鹿児島を特別扱いして改めなかった大久保にも責があると木戸は思っていました。他県には不満に思う者が少なからずいたことも事実で、木戸も相当気にかけていたのです。「西郷暗殺説」については、少なくとも裁判は公明正大になされるべきで、いいかげんに対処すれば世論が納得しないだろう、と述べています。

 実に今日の戦争、ほぼ二万に近き双方の死傷あり。然し人民の家屋、財産を焼焚(しょうふん)する幾千万円を知らず、人民の疾苦艱難実に憐憫に堪えざるなり。然してその元を推さば、西郷隆盛数人を、大久保利通、川路利良等暗殺する云々の一事に過ぎざるなり。そのために西郷隆盛ら大兵を率いて~(木戸日記より)

 木戸の腹立たしい気持ちが伝わってくるようです。自分がいくら意見を述べても採用されない。閣議はすべて大久保の思うままに進行する、という悔しい思いが溢れたのでしょうか。西郷の挙兵は厳しく裁かれなければならないが、大久保も内務卿を引退して内閣を一新し、政治の偏重を改めるべきである、という大胆な意見を表しています。それは実現するはずもありませんでしたが、このほぼ1年後に、大久保内務卿の暗殺事件が起こっていることを考えると、木戸の提言はかなり示唆に富んでいると思わざるを得ません。大久保の独裁的政治手法の限界を木戸は視ていたのでしょうか。

 どちらに対しても筋をとおす、という木戸の姿勢は「佐賀の乱」のときにも見られました。すなわち、江藤新平の裁きを引き合いに出して、閣議で是認された征台論について、
「同人も征韓論の巨魁につき、今日すでに国力をかたむけ台湾御征伐のうえは、彼らも服罪したならば、その先鋒を仰せつけられてはいかがでしょうか。今日、(国論の)唱えるところは、昨年、江藤新平らが唱えたことであります」
 と言って、暗に大久保らを批判しています。また、幕末における「薩長連合」締結の際にも、薩摩との交渉が失敗すれば、長州は滅亡を免れない窮地にあったにもかかわらず、「8.18政変」以降の薩摩の行動を痛烈に批判して、長州藩代表に恥じない毅然とした態度で臨んでいます。これも、敵であろうと、味方であろうと、筋をとおす木戸の一貫した姿勢の表れでしょう。さらに遡れば、小五郎が有備館の新舎長に抜擢された際には、怠惰で反抗的な入館生には年長の者であろうと厳しく対処し、どんなに厭われようと、けっして妥協しなかったことが思い出されます。

 だからこそ木戸は、彼の先輩、後輩、かつては敵対した相手にも、信頼のおける人物として慕われ頼りにされたのだと納得できます。大久保もまた、木戸の「筋をとおす」執拗さには辟易しながらも、木戸を「政治のベスト・パートナー」として敬い、重視し、最期まで隠退をさせなかったのだと思われます。それが木戸の命を縮める結果になったとしても、彼は自らの運命として受け入れるほかなかったのでしょう。

 さて「木戸孝允への旅」もそろそろ終わりに近づいてきました。これ以後、木戸の病状が回復することはなく、医師は仕事をつづける彼の体調を憂慮して外出を禁じます。日増しに胸痛がはげしくなり、ついに病床に臥して起つこともできなくなりました。4月24日の日記には、
「伊藤方成来診。昨日来病気もっとも不快を覚ふ。余、平生骨を東山に埋るは宿意なり」
 とあります。京都の東山(洛東霊山)には吉田稔麿、久坂玄瑞、高杉晋作など、幕末の戦乱で亡くなった多くの仲間たちが眠っています。
 病床にあっても九州の戦況は気になってしかたないらしく、熊本入城以後は薩軍の動きが容易につかめないことに焦燥し、ぐずぐずしていると「賊徒を再び勢いづかせて、官兵を悩まし、人民を苦しめることになる」と嘆いています。毎日来客が絶えないなか、5月に入ってからは病状も相当に悪化し、2日の日記中には「今晩気分甚だ不快を覚へ日々の疲労益々加われり」、 4日「今夜中、病苦もっとも甚だし」、 5日「今夜また病苦を覚ふ」、 6日「昨日来、寒気徹病骨を覚ふ」との記述がつらなり、もはや筆を執るのも苦痛になっていた様子が窺われます。

 6日にも戦況の話がつづられており、最後は、
「電報今日熊本より達せり 河村参軍(欠八字位)黒田清隆今日より帰京に付八代口日記と戦地図を贈れり」
 と記され、ここで日記は終わっています。明治元年4月1日から開始され、明治10年5月6日をもって木戸孝允日記は終結しました。木戸夫人松子は夫の病状重篤なことを山尾庸三から知らされ、6日に東京を発って10日、京都に到着しています。翌日、病人を看ていた杉孫七郎(宮内少輔)が嗣子正次郎(養子)、甥来原彦太郎(正次郎の実兄で木戸の亡妹ハルの長男)らを呼びました。伊藤は日々悪化する木戸の病状を憂えて、ドイツ人医師シュルツに診察を頼みますが、15日、もはや回復の見込みのないことが伝えられます。

 5月19日、天皇が土手町の木戸邸を見舞いに訪れ、病人を感泣させました。賜った勅語は、
「汝孝允病ニ罹(かか)リ兼旬不癒、今親ク病弱ノ軽カザルヲ見、朕深ク之ヲ憂フ、夫レ能(ク)保護ヲ加エヨ」
 その後、木戸はもはや死の近いことを意識して、傍らにいた孫七郎に、「早く白雲に乗じて去りたい」と告げます。渡邉昇(大阪府知事)が見舞いに来た時にはもはや声を出す力もなく、「白雲を望む」と指で空中に書き、東京から駆けつけた山尾庸三には「僕はもうだめらしい」と言って後事を託しました。やがて一睡ごとに夢を見ているのか、「某に遭った、某も来た」とつぶやき、醒めれば国の将来を憂えて、うわごとのように語りだすのです。ある日、ようやく眠りについたと思ったら、
「西郷もまた大抵にせんか。余今自ら赴きて之を説諭すべし」(「松菊木戸公伝」下巻)
 突然、大声をあげて叫んだと――。やがて、うわごとを言うわずかな力も意識も、なくなっていきました。

 明治10(1877)年5月26日午前6時、木戸孝允、京都にて逝く。享年44(満年齢)。

 死因については、「胃中に腫物の生ぜしにより、腹胃緊急してはたらきを失ひたる症なり」(「東京日日新聞」)、また三浦梧楼の自著には「木戸は胃癌にて死去した」と記されており、シュルツの「難治の胃病」という見立てにも一致しています。維新以来、政治上において受けた相当なストレスも、彼の病を昂進させてしまった一因かもしれません。
 6月4日、伊藤博文、山尾庸三、杉孫七郎らは本願寺の大谷光尊に託して、遺言どおり故人を洛東霊山に埋葬しました。葬儀では近衛騎兵一小隊が儀仗兵として棺の左右を守り、参列者は朝野合わせて数千人におよんだといいます。なお、松子夫人は髪を下ろして翠香院と名乗りました。

 余談ですが西郷は生前、宮崎で捕虜となった政府軍の大尉に、「木戸が死んだという噂は本当か」とたずね、「本当だ」と相手が答えると、「木戸は死に、自分はまだ死ねないでいる。何たる不幸か」と嘆いたという話が伝わっています(「郵便報知」掲載)。木戸没後、新聞、単行本などで多数の伝記が発表されていますが、人物評は一貫しているようです。すなわち、

 賢を敬し、才を愛し、一技一能必ず善く之を視る。

 防長二州の人はもちろん、天下の人、公の薫陶を受け、公の恩義を荷うもの、その幾何(いくばく)なるを知らず。

 公、人に接する極めて温和なり。胸に城府(じょうふ)を設けず、故に人その親しむべきを見て言を尽くすを楽しむに至る。

 公は実に維新の元勲として王政復古の柱石として、西郷、大久保と共に三傑と称せられ、而かも西郷にも大久保にもほとんど欲して見ること能わざる天禀の美質を有せるなり。その天禀の美は終始一貫して十年一日の如く、晩年に至りては益々玲瓏(れいろう)の極に達し、後人をしてほとんど抑慕措く能わざらしむ。何をか公が天禀の美と云ふか、公が造次顚沛常住坐臥(註)、忘れんと欲して忘るゝ能はざる国家及び人民の感念是なり。

 その日常溢るゝ處(ところ)のものは憂国の熱情なり、注ぐ處のものは愛民の熱涙なり。而して慮(おもんぱか)る處のもの亦実に社稷(しゃしょく 国家)の将来なり。

 (『松菊餘影』足立荒人著 明治30年)

 (註: 造次顚沛常住坐臥(こうじてんぱいじょうじゅうざが) - あわただしい時、危ない時、座っている時、寝ている時も、いつも)

 木戸の「辞世の句」は伝わっていないので、おそらく作らなかったのでしょう。最期にもらした「白雲を望む」という言葉に彼の嗜好、思念、性格がよく表れていると思えます。死に臨んだ際の諦念、詩歌・絵画などを好んだ芸術志向、そして明治揺籃期の政治家・木戸孝允ゆえに望んでも得られなかった自由への渇望。それらをすべて胸に抱いて、維新革命の大業を成し遂げた長州の志士桂小五郎、近代化の礎を築いた日本国の英傑木戸孝允は、ここにその波乱の生涯を閉じました。彼の生涯を追ってきた長い旅の終わりに、平和な時代に生きる現代人として、深い感謝と心からの哀悼の意を表したいと思います。(「木戸孝允への旅」維新編 完)


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