木戸孝允への旅 124


維新編(明治10年)


● 西南戦争(その4) - 西郷隆盛の最期

 人吉を拠点に薩摩、大隅、日向一帯に勢力を張って攻勢に転じようとした薩軍は、この地に糧食を蓄え、病院などの施設、弾薬の製造所も設けて、長期間の戦闘に堪えうる態勢を整えていました。人吉は球磨(くま)川の上流に位置し、周囲を山々に囲まれ、どの方面からも難路を踏破しなければ入れなかったので、ここで防備をかためて持久戦を続けるには格好の地とみられました。西郷軍に共鳴する土佐の士族が挙兵するとのうわさもあって、彼らの来援を期待していた者たちも多かったのです。実際、土佐の後藤象二郎、板垣退助、林有造(立志社幹部)などはこの機会を、政府に対して事を起こす好機ととらえて、早い時期に画策していました。とくに林は挙兵を決意して、外国から武器・弾薬を購入しようと金策に走っていました。

 林の計画は、土佐の有志隊で警備の手薄な大阪を衝き、同志の大江卓が政府要人の暗殺を謀るというものでした。その前に後藤や林らは、立憲体制など立志社に政治思想が近く、大久保との関係もぎくしゃくしている木戸孝允の勧誘を図って、2月半ばに彼を訪ねたことがありました。木戸と大久保を離間させて政府を内部からかく乱し、瓦解させようとしたのです。しかし、木戸は土佐の民権派には一度、大阪会議(明治8年)後に裏切られているために信用しておらず、大久保とは政府危機の際にはかならず阿吽の呼吸で結束しています。木戸の抱き込みが失敗に終わったのは当然であり、彼らは武装蜂起の計画を実行に移すべく動き出しますが、大久保や岩倉が土佐の動静を見逃すはずはありませんでした。
 
 林らの策謀は大久保が放った味方を装った探偵によって、政府がわに筒抜けになっていたのです。土佐には他にも故武市半平太が主導した勤王党の流れをくむ組織があり、立志社とは思想的な相違から日ごろは疎遠でしたが、政府転覆の一事において協力が約され、また、立志社は紀州の陸奥宗光とも気脈をつうじていました。先走って話せば、5月には土佐から使者2名が九州に入り、薩軍陣地(江代)で桐野利秋と面会し、その後、桐野から高知に派遣された密使が林と面会しています。しかし、立志社の中でも武断派(林、大江など)、平和改革派(片岡健吉など)、中間派(板垣、後藤など)に分かれて議論が紛糾し、容易に目的が統一されませんでした。そのうえ、高知では政府の偵察が厳しくなり、5月には桐野と密会した使者(藤、村松)が拘引され、林も8月8日、武器調達の目的で東京にいたところを、18日には片岡も他の同志と前後して逮捕され、すべてが計画倒れに終わってしまったのです。

 話を九州の戦線にもどしますが、人吉で2年間は持ちこたえられると見込んだ薩軍の計画は、わずか1カ月余りで崩れ去ることになりました。政府軍は球磨(くま)盆地を徐々に包囲して薩軍を圧迫し、5月30日に総攻撃をしかけて6月1日には人吉を占拠したのです。それまでに西郷は宮崎に移っていましたが、同時期に豊後に進出していた野村忍介率いる薩軍の奇兵隊は、延岡、さらに竹田を拠点に征討軍と激戦を繰りひろげていました。しかし、しだいに兵力を増してきた政府軍の攻勢にあって、5月29日、防戦かなわず竹田から撤退しました。豊後は薩摩軍が制すれば四国との連絡がなり、上方への進出も可能になる重要な地だったので、政府軍も最初の劣勢を挽回して、薩軍をこの地から一掃することに必死だったのです。

 大口、出水など薩摩方面の戦線でも政府軍が勝利して、このころから政府軍に投降する者があらわれ、その数は日をおって増えていきました。その後、この方面の薩軍は蒲生、加治木に退却し、宮崎に入った西郷軍は軍資金不足を補うために、佐土原で紙幣製造所を設けて9万3千枚の西郷札を発行しました。しかし、6月24日に鹿児島城下が政府軍によって制圧されると、兵力の補充が困難となり、7月24日には都城が、8月9日には美々津が陥落して、延岡からも撤退を余儀なくされる事態となりました。その後、西郷軍が長井村に入ると、熊本隊、その他の諸隊、さらに奇兵隊もここに集まってきたので、兵力はおよそ3千余になりました。8月15日、延岡奪還を目論んで、西郷は和田越の峠に立って、初めて陣頭指揮をとりました。その姿を見て薩軍の士気は大いに上がりましたが、武器・弾薬が乏しいうえに、政府軍が大兵を擁して迫って来るので、一時的には善戦しても、時間を経れば「多勢に無勢」の不利は拭いきれるものではありません。再び長井村に退却した薩軍は、すぐに政府軍に包囲されて「袋のネズミ」状態になってしまいました。
 
 薩軍はもはや逃げ場を失った、とみた政府軍は18日未明、総攻撃を開始して長井村に突入しました。ところが西郷以下、幹部、精鋭部隊の姿はなく、すでに逃げ去ったあとでした。17日、西郷は全軍の解体を決意して、各隊に以後は自由に行動するように告げたのです。熊本隊、協同体などの諸隊、大半の薩軍は政府軍に投降しましたが、龍口隊の隊長・中津大四郎(肥後人だが熊本隊とは別に一隊を組織していた)は長井神社内で自刃して果てました。残りわずか数百名となった西郷軍は長井村から脱出すると、政府軍の油断をついて可愛嶽(えのだけ 標高728m)を突破し、8月21日、三田井に到着しました。ここで政府軍の兵站を襲って食料、弾薬を確保すると、西郷は鹿児島帰還の意志を全軍に伝えました。

 警戒を怠って薩軍の三田井占拠をゆるし、官金まで奪われてしまった政府軍は、その後、彼らの行方を見失ってしまいます。そのため各方面に部隊を配置して兵力の分散が生じる中、いったい薩軍が肥後に向かうのか、豊後か、あるいは高鍋、砂土原、人吉方面に向かうのか、途中までわからなかったのです。30日になって、薩軍が吉田から吉松に出たとの報が入って、彼らが鹿児島に向かっていることがはっきりわかると、各隊をその方面に移動させて追撃態勢をとりました。各所で小戦闘をくり返しながらも、西郷軍は政府軍の守備戦を突破して9月1日、ついに鹿児島帰還を果たします。しかし、最初の兵力1万3千から現在は400余名に減っており、本拠地にもどっても、もはや再起をはかれる状況でないことは明らかでした。

 それでも油断していた征討軍の新撰旅団を襲って私学校を奪取し、城山も占拠した西郷軍は9月4日、一部の部隊が政府軍の拠点である米倉を奪おうと攻撃を仕掛けました。決死の隊もあとにつづく援軍がなく、武器・兵力ともに勝る政府軍の反撃にあって多くの死者を出し、やむなく撤退します。以後は城山に立てこもって防戦に努めるほかありませんでした。政府軍を指揮する山縣は、長井村で薩軍の脱出を防げなかったことを教訓に、水も漏らさぬ城山包囲網を築いて鉄壁の守備をかためます。西郷は包囲軍からの砲撃を避けるため城山中の洞窟にこもっていました。慎重な山縣は防禦線の厳守を第一とし、各隊がみだりに突出することを禁じたので、専ら銃撃戦をしながら敵情の偵察をつづけ、総攻撃の準備をはじめたのは9月19日ごろでした。

 9月22日、薩軍の使者として河野圭一郎、山野田一輔が白旗をもって包囲軍の守戦を越えてきました。二人は川村参軍と面会しましたが、なんと弁解しようともはや手遅れであり、9月24日未明の総攻撃が決定されていました。川村は、
 「もし西郷隆盛に何か言いたいことがあれば、本日午後5時までに我が陣にこられよ。それを過ぎればいかなることも受け入れられない」
 と答えて、河野をその場にとどめ、山野田に山縣の手紙をわたして城山に帰しました。山野田は城山にもどって、西郷以下の幹部に川村と話した内容を伝えました。西郷曰く、「回答の必要なし」と。

 いまさら使者を遣わすことに疑問を呈する者もいましたが、彼らには「なんとか西郷の命だけは助けたい」という内心の切なる思いがあったのでしょう。しかし、すべては遅きに失しました。山縣は西郷とは戊辰の役から軍事面において協力関係にあり、維新以降には「山城屋」事件にからんで窮地を救われたこともあって、まさに恩人でしたが、助命が西郷の名誉にはならないことを彼はよく知っていました。城山にこもった私学校徒を主とする薩軍は、自分たちはその責めを負っても西郷一人だけは助けたい、という思いだったのに対して、山縣は、西郷一人がその責めを負って全軍を助けるべきである、という意見でした。山縣は西郷に手紙を書いており、手紙の最後には、

 故旧の情において有朋切にこれを君に希望せざるを得ず。君幸いに少しく有朋が情懐の苦を明察せよ。涙をふるってこれを草す。

 という一文がみられ、彼の心情がよく顕れています。日付が明治10年4月23日になっているのをみると、西郷に届けようとして果たせず、ついに彼の最期の際にしか届けられなかった手紙だったのでしょう。事ここに及んで、もはや万に一つも西郷の命を救う手立てのないことは、薩軍の諸将もみな悟っていました。23日の夜、城山では決別の宴がひらかれ、西郷の前で歌い、吟じ、踊る者たちに喝采しながら、みな最後の夜と覚悟をかためたのです。

 9月24日、まだ残月が城山の端にかかる午前4時、静寂を破って政府軍は総攻撃を開始し、岩崎谷に攻め寄せました。圧倒的な銃撃の嵐に薩軍の守備兵は次々と倒れ、各堡塁は陥落して、残るは岩崎谷東口のみとなりました。やがて西郷以下、桐野、村田、別府などの諸将40名が洞窟を出て岩崎口めざして下っていきましたが、大勢の狙撃隊に狙われ倒れる者が続出します。たまらず別府晋助とともに西郷の左右を守っていた辺見十郎太が西郷に自刃をすすめると、
「まだまだ。本道に出てから、いさぎよく戦死しよう」
 と西郷は歩きつづけましたが、やがて弾丸が太股(もも)と腰の部分に命中して動けなくなります。
「晋どん、もうここでよかろう」

 西郷は座して襟を正し、東を向いて両手を合わせました。東京にいる天皇に衷情を表したのでしょうか。別府は、「ごめんなったもんし」と声をかけて西郷の首を斬りました。享年50。のちに従僕が埋めた西郷の首は掘り起こされ、本人と確認されると、洗い清めてその死屍とともに手あつく埋葬されました。西郷のあとを追って村田は自刃、桐野は敵兵と戦うなかで銃撃され、壮絶な最期を遂げました。その他、別府、辺見など薩軍の戦死者は160名、投降者200余名で、戦闘は午前4時にはじまり、午前9時には終結しました。

 西郷の首を実検した山縣は、無量の感慨に堪え得ぬようにその場に立ちつくし、何とも言われぬ顔色を浮かべていたが、突然涙をはらはらとこぼし、「顔色も以前と変わらず、髭は3日前に剃ったようだ」と言ってその髭を撫でた、という話が伝わっています。また、木戸は3月、友人に宛てた手紙で、薩摩に西郷がいなければ薩長の和解、協力はあり得なかった、と述べて、西郷の国家に対する功績を認め、昔を思い出せば今の状況は堪えがたい、という趣旨を伝えています。西郷に対する警戒心を終始持っていた木戸も、相手を冷静に評価していたことがわかります。しかし、木戸は西郷の最期の状況を知ることはありませんでした。その時、彼はすでに鬼籍の人だったからです。


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