木戸孝允への旅のはじまり 1


幼年時代(萩)

おや、ここはどこでしょう?
武家屋敷の白壁が陽に輝く萩の城下町です。呉服町の江戸屋横丁で「おぎゃー」という元気な赤ちゃんの泣き声が聞こえてきます。漢方医和田昌景の邸でどうやら男の子が誕生したようです。
「おやおや、この歳になって男子を授かるとは、まったくおもいもよらなかったわい」
戸惑いつつも喜びが胸に湧いてくるのか、昌景の目尻は下がっています。今日は天保4年(1833)6月26日。昌景は54歳で長男を授かりました。母親は郷士猪口宗右衛門の姉清子で、昌景の後妻です。
和田家は毛利元就の七男、天野元政の支流といわれています。禄高は20石ですが、昌景は藩主の侍医をつとめ、医学館の眼科教授でもあり、一般診療もしているので収入はかなりあります。
昌景はこの長男を小五郎と名づけました。でも、喜んでばかりはいられません。和田家にはすでに町医者小泉雄仙の弟文譲を先妻の長女捨子の入婿に迎えて家を継がせていました。ですから、父の晩年に生まれた小五郎は実子でありながら、跡取にはなれなかったのです。
「さて、どうしたものだろう」
父の昌景は悩みました。長女は不安がっていますし、養子の文譲も内心穏やかではなかったでしょう。小五郎のために、今さら跡目騒動など起こしては家の平穏が保てなくなります。父親が悩んでいる間にも小五郎はすくすくと成長し、満7歳を迎えました。この時期に、近くに住んでいた藩の大組士(馬廻り)、桂九郎兵衛孝古という人が重病になりました。桂家には子供がいなかったので、彼がこのまま亡くなると家は断絶してしまいます。
「そういえば、近所の和田さんには小五郎という可愛い男の子がいたな」
九郎兵衛は思い出し、嫡男でありながら家を継げない事情も知っていたので、あわてて養子縁組を申し出ました。
桂家は150石の武家ですから、これは良い縁組だと父の昌景は思いました。小五郎を桂家の養子に出せば、和田家の跡目問題も解決するし、本人の将来のためにも良いことだと父は考えました。実子を手放すのは寂しいけれど、他国にやるわけではなく、すぐ近くなのだから会いたくなればいつでも会うことができる。妻にもそう言えば納得してくれるだろう。

こうして小五郎は桂家の養子になりました。それから間もなくして養父が亡くなったので、末期養子だった小五郎は、規則によって家禄を150石から90石に減らされましたが、満7歳で桂家の当主として俸禄を受ける身となったのです。翌年には養母も病死したため、小五郎は再び生家の和田家で養育されることになりました。ですから武家の厳しいしつけをされることもなく、経済的な苦労を味わうこともなく、比較的自由にのんびりと育てられたのです。
そのためか、少年時代の小五郎はかなり腕白だったようです。
萩には阿武川が二つの分流となって城下をめぐっており、夏には藩士の子供たちがこの川でさかんに水泳をはじめます。なかでも小五郎は水練が達者で、いたずら好きでもありました。川を往来する舟の下に潜って櫂を取ったり、櫓をはずして押し流したり、舟端に手をかけて舟をひっくり返したりするのです。これには船頭たちもおおいに迷惑しました。
「桂のご養子さまにも困ったものだ」
とたいそう腹を立てたひとりの船頭がある日、いつものように小五郎がいたずらを仕掛けようとして舟端に両手をかけて身体を乗り出したとき、櫂でその頭をおもいきり叩きました。見ていた者たちはさすがに驚いて、
「だいじょうぶだろうか?」と心配そうに小五郎が沈んだ水面あたりを凝視しました。 しばらくすると小五郎は川下のほうに浮き上がり、額を押えながら河岸へ這い上がってきました。見ると、額が裂けて血がこんこんと流れ出ています。泣き出すのではないかと思ったら、傷口を押えたままにっと笑うではありませんか。その強情さ、がまん強さにはみな、あきれ返ったようです。その後、小五郎の額には三日月形の傷跡が一生残ってしまいました。
このときばかりは平素は温厚な父の昌景も、
「武士の子が大事な面部を傷つけられて帰ってくるとは何たることか。いたずらが過ぎるぞ」
と叱りつけました。さすがに小五郎もしゅんとなって、それ以後はいたずらもいく分控え目になったようです。このころはまだ両親も健在で、小五郎にも甘えがあったのでしょう。

でも、そんな自由で幸福な日々は長くは続きませんでした。


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