木戸孝允への旅はつづく 2


少年時代(前半)

さて、小五郎はどのような教育を受けたのでしょうか?
10歳のときに彼は、藩士岡本権九郎が萩城下に開いていた向南塾に入って経書の句読を学びはじめました。この人は号を栖雲といい、教授法が優れているという評判だったので、彼の家塾には武家の子弟があらそって入門していました。小五郎は詩作を好み、「雪中探梅」という詩を師匠栖雲に添削してもらっていますが、なかなか詩作の才があったようです。
藩校の明倫館に入学したのは14歳のときで、佐々木源吾という教師に漢学を学びました。藩主毛利慶親の親試では、即興の詩を詠んで慶親を感心させ、金二百疋の褒賞を受けています。
武芸のほうも、同じころに明倫館の武道教師内藤作兵衛に入門して柳生新陰流の剣術を習い、馬術は八条流の師家仙波喜間太について学びました。桂家の当主として、文武両道に秀でた藩士となるように、父の昌景は願っていたのでしょう。でも、小五郎はまだ鷹揚にかまえていて、まずまずの成績は残しても、なにがなんでも一番になるというようながむしゃらさはありませんでした。
そんな日々に、身内の不幸が相次いで小五郎をおそったのです。

和田家の長女捨子は天保12年、小五郎が9歳のときにすでに亡くなり、次女の八重子が養子文譲(捨子の夫)の後添えになっていました。父の昌景が参勤交代で藩主とともに江戸にあった留守中に、病をえた実母清子が危篤状態に陥りました。小五郎は片時も母のそばを離れずに必死で看病しましたが、その甲斐もなく嘉永元年3月初旬、ついに亡くなってしまいました。小五郎は悲嘆のあまり何をする気にもなれず、出家すると言い出して家族の者を困らせるほどでした。
その不幸に追い討ちをかけるように、5月には異母姉八重子が急死してしまいます。小五郎は二重の哀しみに耐えかねたかのように、ついに熱を発して病床に臥してしまいました。
おどろいたのは6月に江戸から萩の自宅に戻ってきた父昌景です。晩年に授かった大事な一人息子がいまにも母や姉たちの後を追って、息を引きとりそうな様子です。昌景は瀕死のわが子にあらゆる医療を施して、その快癒を祈りつづけました。その父の祈りが天にとどいたのか、小五郎の容態は少しずつ回復の兆しがみられてきて、晩秋になってようやく快癒するに至ったのです。
昌景も何ヶ月ぶりかで安堵の息をつくことができました。でもそれ以来、小五郎は風邪で寝込んだり、ちょっとしたことで病を発することが多くなり、父の心配はつづきました。
「この子は、とても長生きはできないのではないか」
昌景はそう思い、将来のことを考えるようになりました。翌年の春には遺書を書いて、養子文譲、その長子卯一郎、小五郎らに残す財産の分与を定めると、同年11月に文譲の次男直次郎を小五郎の養子にして、桂家が断絶しないように計りました。こうして後顧の憂いをなくしてしまうと、翌々年(嘉永四年)1月12日に、昌景自身が鬼籍の人となりました。

小五郎は満18歳までに、桂家の養父母、生家の姉2人、実父母という合計6人の親族を失ったことになります。しかし、いつまでも哀しんでばかりはいられません。小五郎にはまだ同腹の妹ハルや祖母がいますし、義兄の文譲ともうまくやっていかなければなりません。また、長州藩の若き藩士として今後学ぶべきことも多く、小五郎はまもなく新天地への第一歩を踏み出すことになるのです。

その前に、重要な人物との出会いについて触れておかなければなりません。すなわち吉田寅次郎(松陰)と小五郎との最初のかかわりで、小五郎が明倫館で松陰に兵学を学んだのは嘉永2年、17歳のときでした。松陰は20歳で、小五郎よりわずかに3歳年上だったにすぎません。この時期には松下村塾は玉木文之進(松陰の叔父)がひらいており、松陰は教えていません。したがって、小五郎は久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文など、のちに松陰が主宰する松下村塾の生徒たちにとっては松陰門下の大先輩にあたることになります。
それは小五郎が江戸に出る3年前のことで、松陰も革命思想家としてはまだ無名の存在でした。二人の師弟愛は波乱の時代の幕開けとともに、大きく育まれてゆくことになるのです。

<補記>   徳富蘇峰の吉田松陰評

彼の歴史は蹉跌の歴史なり。彼の一代は失敗の一代なり。然りといえども彼は維新革命における、一箇の革命的先鋒なり。もし維新革命にして伝うべくんば、彼もまた伝えざるべからず。彼はあたかも難産したる母の如し。自ら死せりといえども、その赤児は成育せり。長大となれり。彼れ豈に伝うべからざらんや。



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