<人物紹介>
徳 川 幕 府 |
井伊直弼 安藤信正 大久保一翁 勝海舟 徳川家茂 徳川慶喜(1837〜1913) とくがわよしのぶ 水戸藩主・徳川斉昭の七男で、母は有栖川宮熾仁親王の娘吉子。のちに徳川十五代将軍となる。幼名は七郎麿。 水戸藩は尊王攘夷の思想で知られる水戸学の家元だったが、親藩の立場を重視する「保守派」と勤王を掲げる「改革派」の激しい対立が続いていた。 弘化四年(1847)、慶喜は御三卿の一橋家を相続し、安政二年に一条忠香の養女延(のちに美賀子。今出川実順の妹)と結婚する。同年の米国使節ペリー来航の際には、幕府の諮問に応じて「通商不可、漂流民救助不可、防御専一、戦争準備」の建白書を提出する。 安政五年に将軍継嗣問題が起ると、その有力候補に挙げられる。だが、井伊直弼が大老に就任すると、一橋派は退けられ、紀州家の徳川慶福(よしとみ)が十四代将軍に就く。同年、井伊が勅許を待たずに、日米通商条約に調印したことを非難した慶喜は、登城停止、隠居謹慎の処分を受ける。 その後、水戸藩への密勅降下事件から、井伊による「安政の大獄」がはじまり、水戸藩や尊攘派志士たちが弾圧される。 万廷一年、井伊が暗殺(桜田門外の変)されると、慶喜は復権し、将軍後見職に就任する。将軍家茂を援けて公武合体に尽力するが、朝廷より攘夷実行を迫られる。文久三年(1863)の「八・一八政変」で尊攘派が京都から一掃されると、上京して参与会議に参加する。だが、薩摩の島津久光と意見が合わず、会議の分裂後、慶喜は禁裏御守衛総督と摂海防御指揮を命じられる。その後、禁門の変、第一次征長戦を経て、第二次征長戦の最中に将軍家茂が大阪城で急死する。 慶応二年(1866)十二月、十五代将軍の座に就いた慶喜は、フランスの援助を得て、幕府中心の中央集権体制の確立をめざすが、もはや幕府の衰退を支えきれず、慶応三年十月十四日、二条城で大政を奉還する。だが、岩倉具視らの主導で朝廷より「王政復古」が宣言され、翌年一月に起った鳥羽・伏見の戦いに敗れ、海路江戸にもどって上野寛永寺に謹慎し、恭順の意を表した。四月、江戸開城により、水戸に退き、七月には静岡に移って宝台院に入る。明治二年に謹慎を解かれ、明治三十年、東京に移住、翌年には明治天皇に拝謁する。従一位勲一等公爵として、大正二年(1913)に七十七歳で没した。 井伊直弼(1815〜1860) いいなおすけ 彦根藩主・井伊直中の十四男に生まれる。母は側室の富。 天保二年(1831)に三〇〇石の扶持を給せられ、北の御屋敷に移り、ここを「埋木舎」(うもれぎのや)と名づけて、部屋住みの侘びしさを表し、禅、槍術、居合術、茶道、国学など文武諸芸の修養に励んだ。 弘化三年(1846)、藩主直亮(なおあき)の世子・直元が亡くなったために、直弼が世子となり、江戸に移り住む。だが、直亮とは藩政、公務の面でも意見が合わず、悩みが多かった。 嘉永三年(1850)九月、直亮が死去し、十一月、彦根十三代藩主となり、遺領三十五万石を継ぐと、養父の遺志と称して金十五万両(幕府からの預り地五万石を除く三〇万石)を家臣団にすべて分配した。 ペリーの浦賀来航時には、相模警備に従事し、その重責をはたす。井伊は「開国して、交易を行い、海外に進出するべきである」という意見を幕府に答申し、次第に溜間詰大名中で重きをなしてゆく。徳川斉昭の外国船打払い論に反対し、老中阿部正弘が死去すると、溜間詰の堀田正睦を後任に据えて、米総領事ハリスと将軍家定との会見を実現させる。 安政五年(1858)四月、大老に就任。六月には日米修好通商条約を勅許を得ないまま、独断で調印する。将軍継嗣問題では対立していた一橋派の徳川斉昭、松平慶永らを処罰して、紀州家の徳川慶福を世子に定めた。幕府の批判勢力が強かった京都には謀臣長野義言(主膳)と間部詮勝を派遣して、攘夷派公卿や志士らに弾圧を加え、橋本左内、吉田松陰らを処刑した(安政の大獄)。なかでも密勅問題などで、水戸藩への弾圧を厳しくしたので、藩士の恨みを買い、安政六年三月、井伊は桜田門外で水戸浪士らに暗殺された。享年四十六。 安藤信正(1819〜1871) あんどうのぶまさ 弘化四年(1847)、磐城平藩五万石(のち三万石)を襲封、対馬守となり、江戸城「雁之間」に詰める。主な幼名は欽之助、元服して信睦を名乗り、のち信行、信正と改めた。寺社奉行、若年寄を経て、万延元年(1860)正月、老中に抜擢され、外国御用取扱を兼務してよく外交の衝に当った。同年三月、大老井伊直弼が桜田門外の変で没後は、老中久世広周とともに事態の収拾に努め、幕政を主導して公武合体策を推進した。 外交問題では六月にポルトガル、12月にプロシャと通商条約を締結し、米国通訳官ヒュースケン暗殺事件、ロシア艦対馬上陸事件、東禅寺事件の処理にあたり、内政面では金貨流出防止のため幣制改革を行った。また、幕府勢力挽回のため、皇妹和宮の将軍家茂降嫁を奏請して勅許を得たが、尊攘派の攻撃の的となり、文久二年(1862)正月、坂下門外で水戸浪士に襲われ負傷した。この事件で老中を辞して溜間詰となったが、八月、勤役中に不正の処置があったとして封二万石を削られ、隠居・永蟄居を命ぜられた。 慶応二年(1866)に赦され、その後、戊辰戦争の際に奥羽列藩同盟に加わって新政府軍に抗したため、再び永蟄居を命ぜられた。翌年、赦されて、明治四年(1871)に没した。享年五十三。 大久保一翁(1817〜1888) おおくぼいちおう 幕臣大久保忠向の長男として生れる。名は初め忠正、のち忠寛(ただひろ)。天保十三年(1842)家督を継ぎ、西丸小姓より小納戸役となる。安政元年(1854)老中阿部正弘に登用され、徒歩頭より目付・海防掛に昇進し、翌年、勝海舟と大阪・伊勢の海岸視察をして互いの理解を深めた。その後、蕃所調所頭取を兼ね、長崎奉行、駿府奉行を経て京都奉行となったが、一橋派だったために大老井伊直弼に疎まれて西丸留守居に左遷され、ついで罷免されて寄合に落とされた。 桜田門外の変後に復職して、外国奉行に任ぜられ越中守と改めた。文久二年、大目付を兼ね、この頃から松平慶永らと親交を深め、大政奉還、開国論を唱えたため、講武所奉行に再び左遷、ついで免職となった。 慶応元年(1865)二月、隠居剃髪して一翁と称した。鳥羽伏見敗戦後に、幕府から召し出されて会計総裁、若年寄となり、慶喜の処遇嘆願、江戸城明け渡し、徳川家達(いえさと)と家臣団の駿府移住などで、徳川家のために尽力した。 新政府のもとでは静岡藩権大参事、静岡県参事、東京府知事、元老院議官などを歴任し、明治二十年(1887)子爵を授けられた。一翁は謹厳で剛直な性格だったという。年七十二で没した。 勝海舟(1823〜1899) かつかいしゅう 文政六年一月三十日、旗本・勝小吉の長男として生れる。といっても旗本株は曾祖父の時代に買っており、家は貧しかった。通称は鱗太郎、名は義邦、のち安芳。七歳で十二代将軍家慶の五男初之丞のお相手として出仕する。十三歳ごろに浅草新堀の道場、島田虎之助について剣術を修め、島田の勧めにより蘭学を永井青崖(黒田藩の蘭学者)に学んだ。辞書「ズーフハルマ」二部を謄写し、一部を売って生活費にあてたという。 嘉永三年(1850)、赤坂田町の自宅で蘭学塾を開き、蘭学と西洋兵術を教えた。ペリー来航時(1853)には海防意見書を提出し、安政二年(1855)に大久保忠寛(一翁)の推薦で幕府に登用され、蘭書翻訳に従事するとともに、洋学所創設の議に参与した。同年、海軍伝習生頭役として長崎に赴任、三年後に江戸に帰って軍艦操練所教師方頭取に任ぜられ、万延元年(1860)、軍艦咸臨丸を指揮して太平洋を横断し、米国を訪れた。 その後、文久二年(1862)には軍艦奉行並となり、「広く人材を全国に求めるべし」との持論を実行して、海軍操練所を設けて坂本龍馬など薩、長、土の藩士も受け入れるが、その開放的な空気を疑われて、元治元年(1864)五月に昇進した海軍奉行を十一月には罷免され、操練所も閉鎖された。だが、長州征伐時には密使として長州に派遣され、鳥羽・伏見の戦後は幕府を代表して西郷と会見し、江戸の無血開城、徳川家の保全、慶喜の助命などに尽力した。 明治新政府の下では海軍大輔、参議兼海軍卿、元老院議官などをつとめ、明治二十年に伯爵、翌年、枢密院顧問官になるなど厚遇された。しかし、多くはすぐに辞して、余生をもっぱら歴史の編纂などをして過ごした。脳溢血で倒れたときの最期のことばは、「コレデオシマイ」だったという。 著書に「吹塵録」、「海軍歴史」、「陸軍歴史」、「開国起原」などがある。 徳川家茂(1846〜1866) とくがわいえもち 徳川十四代将軍。和歌山藩主・徳川斉順の長男として生れる。弘化四年(1847)に叔父徳川斉疆(なりかつ)の養子となり、嘉永ニ年、四歳で紀州家を継いだ。同四年、元服して従三位左近衛権中将に叙任、将軍家慶の偏諱を賜わって慶福と改めた。安政五年(1858)六月、大老井伊直弼に推されて十三代将軍家定の継嗣となり、七月、家定の死去後に名を家茂と改め、十月に将軍となる。文久二年、孝明天皇の妹和宮と結婚し、一橋慶喜を将軍後見職に、松平慶永を政事総裁職に任じて幕政改革と公武合体の推進を図った。 翌文久三年三月、将軍としては二三〇年ぶりに上洛するが、尊攘派の勢力に押されて攘夷祈願を目的とする賀茂社行幸に供奉、六月には攘夷の実行を迫る尊攘派を振りきって、大阪に入港した小笠原長行の軍艦で江戸に帰った。同年、八月十八日の政変により尊攘派が京都から一掃されると、翌年正月に再び上洛した。 慶応元年(1865)、第二次征長戦には大阪城に入って征長軍を総督したが、幕軍は苦戦し、翌年七月二十日、病を得て二十一歳の若さで大阪城中に没した。幕府は一ヵ月後の八月二十日になって喪を発した。 |