オリオンの旅日記6 (萩)

木戸孝允旧宅門
木戸孝允生家

松陰神社へ行く

東萩駅には1時間20分ほどで着きました。駅のすぐそばには松本川が流れていて、視界が広々と開けています。まだお昼ごろだったので、ホテルで荷物を預かってもらい、ここでも自転車を借りて町を巡ることにしました。川を渡るともう城下町ですが、そちらへ行く前に、まず松陰神社を訪ねようと思います。松本川を右に見て、Mホテルでもらった萩の観光マップをたよりに川沿いの道をどんどん下っていきます。やがて見えてきた広い通りの信号を左に折れて、まもなくすると松陰神社に到着しました。思ったより鳥居は大きいです。ここで自転車を降りて、中に歩いていくと、神社の中央付近に民家のような建物がありました。立ち止まって見ると、そこが松下村塾でした(写真集はページ下部から入れます)。簡素なつくりですが、ここからのちの初代総理大臣や内務大臣、陸軍大将が生れたわけですね。維新革命の魁となって「安政の大獄」で刑死して、若い村塾生たちの心に火を点けた松陰のような人物が、図ったように幕末の時代に生まれたことは実に不思議な気がします。その他、杉家旧宅には一時、松陰が起居していた4畳半の幽囚室があって、神棚、仏壇などで実際には3畳ぐらいですが、最初はここで「孟子」の講義をしていたようです。松陰神社鳥居ざっと境内を見て、資料室に入ろうと思ったのですが、受付の人がいなかったので、あきらめて鳥居から出たところに並んでいるみやげ物店に入りました。そこにいたネコ(松菊日記に掲載)だけ写真に撮って、なにも買わずに出ると、食堂で休憩してから、また自転車に乗って木戸孝允の生家のある城下町をめざしました。
松陰大橋をわたって広い通りを走ります。途中で有備館という標示があったので、立ち寄ってみました。入口があいていたので中に入ると、剣術道場だったせいか、少し高くなったところに細長い板の間が続いており、5〜6人の人がなにかの行事の打ち合わせのために集まっていました。ちょっと話をしてみたところ、この有備館は普段は閉めていて中には入れないそうです。薄暗い土間から外に出て、再び自転車に乗って走っていくと、武家屋敷とおもわれる白い塀が見えてきました。方向がよくわからず、行き過ぎてまたしても迷ってしまいましたが、先に高杉晋作生誕の地にようやく辿りつきました。でも、ここでも受付に人がおらず、庭には入れましたが家の中には入れませんでした(入れるのかどうかわかりませんが)。しょうがないので庭の写真だけ撮って、すぐに江戸屋横丁に向かいました。

「木戸孝允生家(旧宅)」にて

ここらあたりも白い土塀がつづいて、本当に一昔前にもどったような雰囲気があります。江戸屋横丁を右に入ると、すぐ右側によく手入れのされたきれいな垣根が伸びていて、門横の石碑を見ると「木戸孝允誕生地」と刻まれていました。
「やっとたどり着いたー」と喜びながら、門の写真(ページ上部に掲載)と周辺の写真を撮ってから、少しもどって、垣根の出入口から中に入りました。空き地に自転車をおいて、左の垣根を越えるとすぐ左側に玄関(左下の写真)が二つあって、すでに数人の観光客が中を見学していました。私も靴を脱いで左側の玄関(写真には写っていません)から旧宅に上がりました。畳の間がやたらと連なっていて、歩いているうちにどこにいるのかわからなくなりましたが(十八番です)、一番奥にたどり着くと、そこが小五郎の四畳半の「誕生の間」でした。床の間に木戸孝允時代の写真が2枚、飾られていました(右下の写真)。
木戸孝允生家の玄関 小五郎誕生の間
そうか、木戸さん、ここで生れたんだ――としばらく感慨にふけっていると、急に玄関のほうが騒がしくなったので、庭側の座敷をよこぎって「公用の間」(医師の父親が患者の治療をしたところか)にもどってみると、玄関から団体客がどっと入ってきたのです。それから家の中はすぐに人だらけになって、静かに庭をながめて、幕末に思いをはせるどころではなくなってきました。じっとしていると、あとからきた観光客に押されるので、まだ外に出たくない私は抵抗して、結局、部屋中をぐるぐるまわるはめになってしまいました。どうやら観光バスの見物場所のひとつになっていたようです。
各部屋には木戸孝允や松子夫人、養子たちの写真が飾られていて、案内人の男性がその1枚、1枚を説明しながら、「木戸孝允はずいぶんハンサムな人でして――」と言うと、写真をじっと見ながら、中年のおばさんたちが「あら、ほんと。なんか外人みたいな顔してるのねー」などと言って、わいわい見物するものだから、私はもう行き場がなくなって、玄関先にすわり込んでしまいました。これだけの人が来て、ここ見物するのただなんですよね。お金すこし取ってもいいのになー、修築費用などの寄付金の箱は置いてあるけど、どうなのだろう。高杉晋作の旧宅はたしか、100円だか、200円だか入場料とっているみたいだけど、こちらのほうが見るべきものがたくさんありそうなのに――。などと思いながら、写真を数枚撮って、今回はどうも落ち着かないので退散することにしました。外に出ると、うわっ、また来た。新たな団体客です。もう、運が悪いというか、これは「もう一度、ぜひいらっしゃいよ」と亡き木戸公が苦笑いしながら家のどこからか、私に言っているのでしょうか――。
「ええ、また来ますよ、木戸さん。今度は観光シーズンをはずして、ゆっくりここで過ごすために」心のなかでそう答えました。ここで一泊でもできたら嬉しいけれど、もちろん無理でしょう。また来る、また来る、ぜったいに来る、と心に誓いながら、名残惜しい気持ちをおさえて木戸孝允の生家をあとにしました。
そのあと、ちょっと隣の青木周弼旧宅にも寄ってみました。こちらは見物人は私ひとりで閑散としていたのですが、青木周蔵とそのドイツ人妻の写真が飾られてあったので、写真を撮ってきました。
その後は菊ヶ浜にむかう道をとおって城下町を巡りました。本当に城下町という名にふさわしい町並で、萩焼の小さな個人店が点在し、自転車で走っていると、時々どこからか夏みかんの香りがして、実にさわやかな気分に浸れました。通りは本当に清潔で、塵ひとつ落ちていません。海辺に出れば、美しい日本海の景色の中に、萩城のあった指月山のこんもりとした姿が眺望できました。

旅日記が思ったより長くなってしまったので、残念ですが、翌日に訪れた場所の話は割愛させていただきます(萩城跡、石彫公園、萩博物館など)。機会があれば、またいつかお話することがあるかもしれません。



後記

今回、萩を訪れて感じたことは、木戸孝允という萩が誇るべき人物に対する認知度が、生誕の地においてさえ十分ではないということです。それは博物館でも感じましたし、公式ガイドブック「城下町編」(木戸孝允旧宅が紹介されていない)でも感じました。確かに高杉晋作の功績も大きいですが、木戸孝允は長州藩の過激派志士たちと藩政府とを結ぶ扇の要であり、若い藩士たちをよくサポートし、幕長戦、戊辰戦争において、大村益次郎(村田蔵六)の軍才を生かしきった先見の明あるリーダーでした。彼なくして長州藩は明治維新の功績を築き上げることは不可能だったでしょう。また、明治2年の諸隊反乱では木戸が泥をかぶってこれを鎮圧したからこそ、長州藩は維新の功がご破算になることから免れることができたのです。もはや彼は一萩人ではなく、日本の木戸孝允であり、対外的にも危うい時代に国の運命を担う最も重要な政治家だったからこそ、批判を度外視して決断できたのです。彼の立場になれば、誰でも同じ結論に達したでしょう。
この事件ばかりでなく、戊辰の役、佐賀の乱、西南戦争など、鎮圧されて刑死、あるいは自害した者たちは、判官びいきの対象となり、とかく鎮圧した側を非難する傾向があります。しかし、私はこうした滅びる側に同情的な悲劇史観には疑問を抱いています。悲劇性をあまりに強調し過ぎると、歴史の真実はそのヴェールの裏に隠されて、しっかり見ることができなくなります。鎮圧側を非難する者たちは、鎮圧される者たちに不利な資料については、けっして触れることはありません。明治6年の「征韓論」をめぐる政争でも、留守政府メンバーの権力争奪の周到な計画性、陰謀については、まったく論じようともしないか、無知であるかのどちらかなのです。それに西郷が敵側に利用されるのは、この事変に限ったことではありません。彼は人格的には愛すべき人物ですが、政治的にはスタンスが流動的で、大久保利通が西郷のそうした危うさに気づいたのは、これよりもっと以前、戊辰戦争の時ではなかったかと思います。しかし、旅日記の後記でこれ以上この問題に深入りするのは、やめたほうがよさそうです。私は一年以上前から、前記のテーマ「悲劇史観が陥る誤り」(仮題)で小論文を書こうと思っていました。しかし、十分に資料を読込む時間がとれず、いまだに実現していませんが、いずれ「特別小論」に掲載する予定です。

旅行記から話がかなり逸れてしまったので戻りますが、萩は本当にすてきな町でした。この美しい城下町を今後も末永くそのまま保存していただきたいものです。いつかまた、再訪するときも、爽やかな夏みかんの香りに迎えられ、萩の歴史と文化を肌で感じられることを願いつつ、「萩まちじゅう博物館」の理念に心から賛同したいと思います。大好きな木戸孝允を生んだ萩市に、愛を込めて――。(了)



  松下村塾写真集  木戸孝允生家  その他の写真(指月山など)

 

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