木戸孝允への旅はつづく 47


風雲篇(山口)

● 伊藤、井上、決死の帰国

 元治元年(1864)6月10日、「蛤御門の変」が起こるひと月前のこと、イギリスに密航留学していた井上聞多(馨)と伊藤俊輔(博文)が密かに帰国しました。彼らは留学中、イギリスの「タイムズ」紙で長州藩の外国船砲撃と薩英戦争の記事を読んで驚いたのです。西欧の文化、技術の先進性を目の当たりにして、彼らはすでに攘夷の不可能なことをはっきり悟っていました。このままでは日本は滅びるという危機感を抱いた彼らは相談のうえ、遠藤勤助、山尾庸三、野村弥吉(井上勝)は将来のためにイギリスに残って勉学をつづけ、伊藤と井上が先に帰国することになりました。なんとか無謀な攘夷戦争を止めて、西欧文明の正しい情報を伝え、尊王開国へと藩政策を転換させなければならないという、切実な思いがありました。もちろん、それは外国の手先と誤解されかねない危険な行動でしたが、伊藤も井上も、もはや藩意識を超えて、日本という国全体を考えるようになっていたのです。
 二人は横浜からすぐにマセソン商会のガワーを訪ね、英国公使オールコックと面会できるように周旋をたのみました。数日後に、オールコックとの直接会見が実現し、二人はその決意を語りました。イギリスの軍事力を知らせ、攘夷の無謀なことを藩主に説いて排外的な政策を転換させるので、四国連合艦隊の長州攻撃を延期してほしいという二人の若者の必死な様子に、公使は好感を抱いたのでしょうか。その願いを聞き入れ、二人をイギリスの軍艦バロッサ号に乗せて長州に送りとどけてやりました。日本語に堪能なイギリス通訳官・アーネスト・サトウとエンスリーも四国代表の長州藩主への覚書を携えて日本語教師の中沢見作とともに同行しました。伊藤と井上は周防の富海(とのみ)に上陸し、サトウらは二人が海岸から去っていく姿をじっと見つめていました。
「彼らは十中の六、七まで首をはねられ、二度と会う機会はないだろう」
そのとき、中沢がサトウにそう漏らしました。

 6月24日の夜、伊藤と井上は山口に到着し、26日に井上が藩主毛利敬親に拝謁、井上の懇請により翌27日に君前会議が開かれました。家老宍戸備前など藩重役が列座する席上で、井上は攘夷を捨て開国すべしとの意見をはっきり述べました。そして西欧諸国の事情を話し、攘夷の無謀を説いて、「主君への忠不忠は国家存亡の危急をいかに救うかにあるのであって、毛利家の家臣としての個人的忠誠にあるのではない」とまで言い切ります。
「攘夷の決行とは国を滅ぼすことである。だから、攘夷の間違いを藩主自ら内外に知らしめ、開国を主唱して皇国統一を期すことこそ、今、長州藩がなさねばならない最重要事である」
 井上は涙を流して必死に説きますが、ついに藩要路を納得させることはできませんでした。西欧の技術を説明するといっても、「電信」という訳語はまだなく、原語で「テレグラフ」といい、なん千里もの距離をわずか2〜3時間で通信できるといっても、法螺を吹くな、と嘲笑されてしまうのです。決死の覚悟で帰国して、藩の方針を変えようとした井上らの努力はまったく失敗におわりました。それどころか、井上らを外国のスパイ扱いにして、二人を斬るべし、と激昂する者もいて、不穏な空気が藩内を満たしはじめていました。こうした空気を一掃するため、6月30日、藩政府は改めて攘夷の布告を発して、決戦の覚悟を促しました。
 しかし、その頃には藩の主力部隊はすでに京都に向かって進軍しており、とても外国艦隊に応戦できるような状況ではありませんでした。そこで3ヶ月の攻撃延期を四ヶ国と交渉するように二人は命じられ、バロッサ号が停泊している姫島へ戻ることになりました。わが藩の攘夷行動は天皇や幕府の命令にしたがっただけなのだから、今後のことについては天皇に相談したいので結論が出るまで3ヶ月ほど待ってほしい、というのが長州側の言い分でした。こんな虫のいい申し出を外国側が呑むわけがない、と二人が思ったとおり、交渉は失敗におわり、戦いは避けられない見通しとなりました。
 その間、長州藩の冤罪を晴らそうと京へ向かった部隊は7月19日、ついに幕府軍との戦闘に突入し、結局、敗北してしまいます(「禁門の変」41、42、43を参照)。23日には長州追討令が発せられ、幕府は西国諸藩に出兵命令を下します。朝敵となった長州藩は、腹背に敵を抱えることになり、26日、君前会議がひらかれました。藩政府は外国との止戦交渉をするように井上に命じましたが、井上はこの交渉役をただちに拒否します。
「前回の君前会議で、自分があれほど攘夷の無謀を説いてやめるように訴えたのに、諸君はたとえ防長二州が焦土と化しても攘夷の方針は変えないと豪語したではないか」
 と井上は怒りを顕わにして話します。
「それが、京都からの敗報に接したとたんに、攻撃をやめるように外国と交渉しろとは、まったく無責任もはなはだしい。こんな無責任な輩と善後の策を講じても、けっしてよい結果は得られない」
 こう言い放つと井上は決然と席をけって、立ち去ってしまいました。

 8月4日午後、四国連合艦隊が下関海峡にその威容を現しました。イギリス軍艦9隻、フランス軍艦3隻、オランダ軍艦4隻、それにアメリカの仮装艦1隻の17隻から成る艦隊は、旗艦ユーリアラス号(英国)を先頭に、3縦列の対陣を組んで姫島沖から威風堂々と航進してきたのです。あわてた藩政府は海軍局総督・松島剛蔵と伊藤俊輔に応接役を命じ、二人は三田尻から船を漕ぎ出しますが、艦隊はすでに下関にむけて動き出していました。再び井上が呼び出されて和議交渉を命じられます。しかし時すでに遅く、8月5日午後4時ごろ、旗艦ユーリアラス号から第一砲が轟くと、全艦の砲門がいっせいに火を噴きました。長州側も前田村の砲台から応戦し、ここに馬関(下関)戦争の火蓋がきって落とされました。


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