<人物紹介>

そ の 他

 河井継之助  徳川慶勝  佐久間象山  松平慶永

 橋本左内  斎藤弥九郎  緒方洪庵  福沢諭吉  真木和泉


松平容保(1835〜1893)  まつだいらかたもり

会津藩主。美濃国高須藩主・松平義建(よしたつ)の第六子に生まれるが、弘化三年(1846)会津藩主・松平容敬(かたたか)の養子となる。嘉永五年(1852)二月、養父容敬の病死により襲封、肥後守となる。万廷元年(1860)三月に起った「桜田門外の変」の処理にあたっては、水戸藩の問罪を中止させて名望を高めた。
文久二年(1862)、幕府より京都守護職の就任を求められたが、容保(かたもり)は再三にわたりこれを固辞する。だが、藩祖が二代将軍徳川秀忠の庶子、保科正之(ほしなまさゆき)であり、自らは尾張徳川家の分家(高須藩)出身であることから、拒みきれずに八月に職を受け、十二月には上京した。
孝明天皇の信任を得て、公武合体の推進に努めるが、尊攘派による天皇の攘夷親征の計画が実行されそうな状況となる。容保は薩摩藩と結び、武力で宮廷をかためてこれを阻止する。尊攘派の廷臣三条実美ら七卿は京都から追放され、長州藩に落ちのびる。
元治元年(1864)七月、長州が朝廷での復権を願って出兵上京すると、藩兵を指揮して戦闘におよび、長州軍を敗走せしめた(禁門の変)。その後の征長戦では終始強硬論を主張するが、慶応二年(1866)、第二次征長戦のさ中に将軍家茂が死去、同年十二月には孝明天皇も急死し、幕府側に不利な形勢となる。
慶応三年(1867)十月、十五代将軍慶喜が大政を奉還すると、慶喜に従い大阪城に下った。翌年一月、幕府軍は鳥羽・伏見の戦いで敗れ、江戸に帰った。容保は会津で謹慎するが、西軍が征討戦をすすめ、八月に城下に侵入、白虎隊が飯盛山で自刃する。九月に降伏し鶴ヶ城を開城、容保は鳥取池田家にお預けとなる。明治二年に家名再興が許され、世子容大が陸奥国で三万石を与えられ斗南藩知事となる。明治五年、容保の謹慎が解除される。明治十三年、五代東照宮宮司に就任。明治二六年十二月五日、東京で死去する。



河井継之助(1827〜1868)  かわいつぎのすけ

長岡藩勘定奉行・河井代右衛門秋紀の長男。子供のころから気性の激しい子だった。藩校「崇徳館」では朱子学を学んだが、しだいに陽明学(儒学の一派。知識と実戦との一体化<知行合一>を重視するという、王陽明が唱えた哲学)に傾倒していく。読書をよくし、独学で教養を深めていった。
嘉永三年(1850)にすがと結婚。嘉永五年には江戸に遊学し、斎藤拙堂の門に入る。その後、古賀茶渓の久敬舎に入って海外の事情を学んだ。佐久間象山にも学んだが、肌が合わなかったらしく、すぐに退学している。嘉永六年に長岡にもどり、評定方随役に抜擢されたが上司とあわず、まもなく辞職する。
再び江戸に出てから、備中松山の儒者、山田方谷(ほうこく)を訪ねて陽明学を学び、長崎に遊んで見聞を広め、文久元年(1861)に長岡に帰った。元治元年(1864)に郡奉行となり、のちに町奉行を兼任、年寄役、家老へと出世する。その間、藩政の改革を進めて、農業、商業の振興、人材の教育を重視し、経済施策にも成功して藩庫を潤した。
藩主牧野忠恭が京都所司代に任じられると、辞任を勧める建白書を提出する。文久三年に京都詰めとなって上洛したあとにも藩主に辞任を勧めている。翌年には、老中に就任していた藩主に辞任を勧め、自らも公用人の職を辞した。
慶応三年の王政復古後における戊辰戦争では長岡藩に中立の立場をとらせるが、小千谷(おじや)での新政府軍軍艦・岩村高俊との会談が決裂し、戦闘にいたる。朝日山の戦い、今町の戦い、大黒の戦いなどで善戦し、一度は落とされた長岡城を奪還するほどだったが、継之助は左ひざを負傷してしまう。その後、会津藩をめざして会津国境への八十里越えをしたが、途中でひざの傷が悪化して、ついに絶命した。

著書に旅日記「塵壺(ちりつぼ) 河井蒼竜窟手記」がある。
また、司馬遼太郎の作品に河井継之助を主人公にした小説「峠」がある。



徳川慶勝(1824〜1883)  とくがわよしかつ

尾張十四代藩主。美濃高須藩主・松平慶建の第二子で、会津藩主・松平容保、京都所司代の桑名藩主・松平定敬(さだあき)の兄にあたる。嘉永二年(1849)尾張藩主となり、藩政の改革に着手して、人材の登用、財政整理などで成果をあげた。日米通商条約の調印問題では鎖国攘夷を唱え、将軍継嗣には一橋慶喜を推した。
安政五年(1858)、大老井伊直弼を不時登城して詰問したため、安政の大獄で蟄居・謹慎を命じられ、家督を弟の茂徳に譲った。藩内では茂徳を推す佐幕派と慶勝を推す非幕府派の金鉄組とが対立していた。文久二年(1862)に許されると、金鉄組も優勢となり、翌年、茂徳は家督を慶勝の実子義宜に譲った。
元治元年(1864)、幕府の長州征伐の際に征長総督に任命されたが、長州藩が謝罪の意を表して三家老の首を差し出したので、戦わずに寛大の処置をとった。だが幕府はこれを喜ばず再征を計画すると、慶勝は反対して出兵を拒否した。
王政復古後には朝廷の議定となり、藩論を勤王に統一して、新政府の東征軍に参加した。明治三年、名古屋藩知事となるが、廃藩置県とともに辞任した。その後は、北海道八雲の開拓を支援した。



佐久間象山(1811〜1864)  さくましょうざん(ぞうざん)

信州松代藩・真田家の家臣で、父は佐久間一学。名は国忠、のちに啓(ひらき)、字は子明、通称は修理。幼少より漢学を修め、秀才の誉れが高かった。二十三歳のときに江戸に出て、佐藤一斎の門に学び、渡辺崋山、藤田東湖らと交遊を深めた。天保十年(1839)、神田のお玉ヶ池に私塾「象山書院」を開き、藩邸の学問所頭取にもなった。
天保十三年、藩主真田幸貫が海防掛老中となると、象山は顧問として「海防八策」を建言し、伊豆韮山代官・江川坦庵(太郎左衛門)に西洋兵学を、黒川良安に蘭学を学んだ。嘉永元年、オランダ人ペウセルの原書から大砲数門を鋳た。嘉永三年、深川藩邸で砲学の教授を始めると、勝海舟、吉田松陰、橋本左内、河井継之助らが入門した。
安政元年(1854)、吉田松陰の密航未遂事件に連座して、松代に八年間蟄居の身となった。その間、蘭書などを読んで知識を広め、高杉晋作、久坂玄瑞、中岡慎太郎らの訪問を受けた。文久二年に赦され、元治元年(1864)、将軍家茂の招命により上京して、公武合体、開国遷都を主張した。そのため、七月十一日、三条木屋町で尊攘派の河上彦斎らに暗殺された。
象山の開国論は、東洋の道徳、西洋の学芸(学問技術)を重んじて国力を強め、戦わずして外国を屈服させるところにあったが、尊大で人を見下す質が禍して敵が多かった。夫人は勝海舟の妹順子である。



松平慶永(1828〜1890)  まつだいらよしなが

越前福井藩主。春嶽の号で知られる。田安家三代・徳川斉匡(なりまさ)の八男で、天保九年(1838)、松平斉善(なりさわ)の病死により、福井藩三十二万石の十六代当主となる。時勢を見るに明敏で、中根雪江、橋本左内、三岡八郎(由利公正)らの賢才を登用し、熊本から横井小楠を招いて顧問に据え、藩の財政再建に取り組んだ。藩校明道館、洋書習学所、種痘館の設立、洋式兵制の導入などの改革を推し進めて、進取的開国論に藩論をまとめた。
将軍継嗣問題では一橋慶喜の擁立に動いたため、時の大老井伊直弼と対立、安政五年(1858)に隠居謹慎に処せられた。井伊の暗殺後は政治総裁職として政界に復帰し、公武合体政策の実現に尽力し、参勤交代制の緩和、幕府軍制の洋式化などを実現させた。
慶応三年(1867)には島津久光、山内豊信、伊達宗城とともに四侯会議を開いて、長州処分と兵庫開港の問題を議論した。大政奉還、王政復古に際しては、倒幕派に自重論を唱えたが容れられなかった。
明治政府成立後は、議定となり、ついで内国事務総督、民部卿、大蔵卿を歴任、明治三年(1870)麝香間祗侯となり、政界の第一線を退いた。新元号の「明治」は慶永が選上したもの。



橋本左内(1834〜1859)  はしもとさない

福井藩の藩医橋本彦也の長男として生れる。幼少より秀才として知られ、十歳で「三国志」を通読、十五で「啓発録」を著した。藩の医学校「済世館」で漢方医学を学び、嘉永二年(1962)、大阪に出て緒方洪庵の塾に入り、洋学と医学を学んだ。十九歳で家督を相続、二十五石五人扶持の藩医となり、種痘の普及に努めた。
安政元年、江戸に遊学し、蘭学を学びながら、藤田東湖、西郷吉兵衛(隆盛)ら他藩士と交遊を深めた。藩主松平慶永に信任され、書院番、ついで明道館幹事、側役支配に昇格し、藩制改革にも参画した。一橋慶喜の擁立運動では、英明の将軍の下での幕政大改革、統一国家の実現、外国貿易の促進、西洋技術の導入による国力増強、日露同盟締結に基づく国際的地位の向上などの意見を披露した。
安政五年には京都の公卿間に慶喜への内勅降下、通商条約の勅許について説いてまわったがうまくいかなかった。六月に紀州の慶福が将軍継嗣に決定したあと、大老井伊の失脚をはかったが、七月、慶永が隠居謹慎に処せられ、左内も謹慎の生活にはいった。その後、幕府の糾問をうけ、幕吏は左内の真意が幕府扶翼にあったことを認めたが、軽輩の身分で将軍継嗣問題に関与したことを咎められ、安政六年十月、江戸伝馬町獄舎で斬首された。



斎藤弥九郎(1798〜1871)  さいとうやくろう

幕末の剣客で名は善道(よしみち)、号は篤信斎。越中の庄屋の息子に生れた弥九郎は十五歳のとき志を抱いて江戸に出、旗本の小者として働きながら夜は熱心に読書をした。それを見て感心した主人の奨めで、神道無念流・岡田十松の門に入り、同時に古賀精里の学塾にも通って剣術、学問の習得に努めた。その後、岡田の撃剣館で師範代をつとめるまでに上達し、師の没後、文政九年(1826)には、同門の幕臣・江川担庵(太郎左衛門)の後援で飯田町に錬兵館を設立する。やがて江戸中にその名が知られるようになり、門人三千と称され、北辰一刀流・千葉周作、鏡心明智流・桃井春蔵とともに、江戸三大道場の剣客三傑とうたわれた。
天保九年、水戸藩主徳川斉昭に招かれて、弘道館で藩士を指南し、水戸藩士の門人が多くなった。その後、弥九郎の子新太郎(二代目弥九郎)が萩に立ち寄って藩士の江戸遊学について意見書を提出すると、長州から江戸の錬兵館に学ぶ者が増えていった。桂小五郎、高杉晋作、井上勝(のち「鉄道の父」と称される)、山尾庸三(造船など工業分野で活躍)、品川弥二郎(殖産工業の推進に貢献)などが錬兵館の門生となった。
嘉永六年、伊豆韮山代官になっていた江川坦庵が品川台場を築造する際には、工事の監督をして江川を援けた。
明治元年、戊辰の役では幕府方・彰義隊の指導を乞われたが、尊攘の大義を守って受けなかった。維新後、かつて錬兵館の塾頭をつとめた木戸孝允(桂小五郎)の推薦で、新政府の徴士会計官判事試補に任じ、ついで同権判事となり大阪に在職した。明治二年、造幣局権判事、三年には東京在勤を命じられたが、ほどなく明治四年十月二日に没した。

* 斎藤弥九郎については「木戸孝允をめぐる人々」の「斎藤弥九郎と桂小五郎」でも取り上げています。



緒方洪庵(1810〜1863)  おがたこうあん

幕末の蘭学医、教育者。足守藩士佐伯瀬左衛門(惟因)の三男に生れる。文政八年(1825)、蔵屋敷留守居役となった父とともに大阪に住み、蘭学医・中環(なかたまき、天游)に入門し、緒方三平と改名。天保二年(1831)、江戸に出て蘭学・医学の大家坪井信道の門に入り、その後、信道の師宇田川玄真にも学んでその才を認められた。
天保七年、長崎に遊学したとき、緒方洪庵と改める。天保九年、大阪で蘭学塾「適々斎塾」(適塾)を開くと、全国から多くの俊才が集まった。村田蔵六、佐野常民、橋本左内、大鳥圭介、福沢諭吉、池田謙斎など、25年間にわたって、のちに日本の近代化に寄与した人材を輩出した。また、安政五年にコレラが流行した際に刊行した「虎狼痢治準」は治療の指針となり、牛痘種痘の普及にも尽力し、貴賎貧富の区別なく患者の診療にあたった。
文久二年(1862)、幕府に請われて将軍家茂の奥医師兼西洋医学所頭取となり、のち法眼に叙せられたが、持病の結核が悪化して翌三年六月に急逝した。「人身窮理小解」(ローゼ著、生理学)、「病学痛論」(病理学)、「扶氏経験遺訓」(フーフェランド著、内科書))などの訳書があり、和歌も多く残している。



福沢諭吉(1835〜1901)  ふくざわゆきち

啓蒙思想家、教育家。備前中津藩士福沢百助の末子として生れるが、生後まもなく父を失った。十四、五歳で白石照山に漢書を学び、安政元年(1854)、長兄の勧めで長崎に遊学。翌年、大阪に出て、緒方洪庵の適塾で蘭学を学び、のちに塾頭となる。安政五年(1858)、藩の招きで江戸に行き、築地鉄砲洲の藩邸中屋敷で蘭学塾を開いた(慶応義塾の起源)。やがて蘭学が役に立たないことを知り、英学を独習した。
万延元年(1860)、幕府の遣米使節の軍艦奉行木村喜毅の従僕として咸臨丸で渡米、帰国後は幕府の翻訳方に雇われた。文久二年、幕府遣欧使節の随員としてヨーロッパ各地をまわり、元治元年、幕臣となって外国方翻訳局に出仕、百五十俵を給せられた。慶応二年(1866)に「西洋事情」を出版すると、広く読まれて当時の日本人に多くの感化を与えた。翌年には軍艦購入の件で再渡米する。大政奉還後は新政府に出仕せずに、明治元年(1868)、塾を芝新銭座に移して慶応義塾と命名、その経営と啓蒙活動に全力を注いだ。
明治六年、加藤弘之、津田真道、西周らと明六社を結成し「明六雑誌」を発刊するとともに「学問のすすめ」、「文明論之概略」を刊行、封建教学と封建道徳をきびしく批判した。やがて自由民権運動が激しくなると、官民調和を唱えるようになり、明治十三年、伊藤博文、井上馨、大隈重信らから政府機関誌の発刊を依頼されて受諾する。しかし、翌十四年の政変で伊藤らの疑惑をうけ、この企画は頓挫する。それ以後は対外進出を肯定し、朝鮮の志士金玉均を支援し、日清戦争を支持するに至る。彼は終生在野にあって、封建的思想に対して批判の立場をとり、多方面に多くの著書を残して、官民両層に多大な影響を与えた。明治三十四年二月三日、脳溢血で死去。



真木和泉(1813〜1864)  まきいずみ

筑後国(福岡県)久留米水天宮神職の家に生れる。名は保臣。十一歳で家督を相続、水天宮祠官となり、藩学明善堂に学ぶ。弘化元年(1844)、江戸に出て会沢正志斎と面会し水戸学に傾倒、尊王攘夷思想を抱くにいたる。このころ、安井息軒、塩谷宕陰、橘守部らとも交流する。九月、久留米に帰ると藩主有馬頼永に藩政改革の意見書を上書する。
嘉永五年(1852)、執政有馬監物らの排斥をはかって失敗、蟄居を命じられる。その間に「大夢記」「義挙策和文(密書草案)」「義挙三策」などを著して急激な討幕論を主張し、諸国の志士がひそかに訪れるようになる。文久元年(1861)、平野国臣、清河八郎らと会談し、翌年二月に脱藩して鹿児島にわたり、大久保一蔵(利通)、有馬新七らと島津久光の上京をはかる。久光が上京すると、田中河内介らと挙兵しようとするが、寺田屋事件が起こって挫折、再び久留米藩に幽閉された。翌年、赦免されたが、尊攘運動をつづけたために守旧派によって三たび投獄された。
その後、長州藩士の赦免運動で釈放され長州に赴くと、毛利敬親父子に攘夷親征を説き、六月に上京して「五事建策」を草し、学習院御用掛となった。「八月十八日政変」では七卿にしたがって長州に下り、やがて久坂玄瑞、来島又兵衛らと挙兵上京をはかり、元治元年(1864)六月、諸隊をひきいて上京、毛利父子、三条実美らの冤罪を訴えた。七月、「禁門の変」に敗れて天王山に退却するも、会津藩の追撃にあって、同志十六名とともに自刃した。

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