木戸孝允への旅 103


維新編(明治5年)


● イギリスでの体験(続・岩倉使節団)

 使節団一行がウィンザー城(ロンドン郊外)でヴィクトリア女王に謁見したのは、11月5日(陽暦1972年12月5日)で、最初にリバプールに到着してからすでに3か月余が経過していました。もちろん、それまでの時間は無駄にせず、あちこちの都市や地方にも足をのばし、様々な施設を視て回りました。ロンドン以外にはブライトン(博物館、水族館など)、マンチェスター(ロイヤル劇場、紡績工場、鉄工所、裁判所、公園など)、グラスゴー(織物工場、機関車工場、造船所など)、エディンバラ(科学技術博物館、印刷インキ工場、製紙工場など)、ニューカッスル(アームストロング社、炭坑、石切場など)、バーミンガム(取引所、ガラス工場、ペン工場など)、ダブリン(銀行、教会、ビール工場など)、グリニッジ(海軍病院、王立天文台、航海学校など)など村落を含めて26か所、施設、建造物などは160か所以上も訪れています。

 使節団は「産業革命」発祥の地であるイギリスには特別の関心を抱いていたようで、「米欧回覧実記」(五編 全百巻: 久米邦武著)には4か月におよぶ滞在について、アメリカとならぶ20巻を費やして詳述しています(ドイツは10巻、フランス9巻、イタリア6巻、ロシア5巻など)。とくに大久保は、日本とおなじ島国であるイギリスが大英帝国をなした富強の根源が工業と貿易にあることを自らの眼で確認し、帰国後は内務省を創設して殖産興業の推進に力を入れることになるのです。
 一方、木戸は、正規(憲法)・典則(法律)こそが国の根本を定めるもの、という思いをいよいよ強くし、合衆国憲法につづいて、イギリスの政体書にも関心を示して学習。さらに、立法や行政についても何礼之(一等書記官)を助手として調査をすすめました。彼は久米や杉浦(弘蔵)らに米国憲法の注釈を書かせ、何礼之にはモンテスキューの『法の精神』を翻訳させており、これは『万法精理』という題で明治9年に出版されました。のちには青木にもプロシャ憲法を研究させて、その成果をまとめた文書を帰国後に受け取っています。また、国民の教育については、維新政府発足当初から重要視していましたから、学校などの施設も熱心に視てまわり、帰国後に文部卿を引き受けたのも、教育施設の整備と普及を加速させるつもりだったのでしょう。

 ただ、英国滞在中に木戸は一時体調をくずして、ホテルの部屋で休息をとり、外出を控えるようになっていました。このころから、彼の身体に潜んでいた病魔がすこしずつ蠢き出していたのでしょうか。帰国後は健康を回復することなく、多病に悩まされることになります。

 イギリスについて、もうすこし話をつづけますが、当時、ロンドンの人口は325万に達し、最も繁栄したヴィクトリア女王時代でしたから、この国の富を紡ぎだす大工場群も、古色蒼然とした歴史的建造物や壮麗な寺院も、テームズ川にかかるロンドン橋などの立派な橋の数々も、さぞや使節団一行を驚かし、感嘆させたことでしょう。しかし、華やかな舞台の裏には雑然とした控えの場があるように、すべてがすばらしかったわけではなかったのです。
 ある日、木戸と大久保は接待役アレクサンダーの案内で、ロンドン東部のイーストエンドを訪れました。そこは人夫や工場労働者などの下層民が住む場所で、悪臭が漂い、貧しい身なりの子供たちはごみの山や下水管をあさって、金目のものを探していました。格安で泊まれる木賃宿、港湾労働者の歌謡を聴かせる音楽ホールや芝居小屋、路地には客を誘う娼婦らの姿も見られ、清国人たちが住むアヘン窟さえありました。そこで一人のイギリス婦人がアヘンを吸っており、彼女は中毒にかかって、「やめられない」と話しているのを木戸らは聞きました。
「貧民窟というよりは、悪漢の巣であり、言語に絶するというほかない」と木戸は言い、大久保も「あれを見て、世の中が浅ましくなった」と語っています。

 英国滞在中に使節団は、とんでもない災難にもあっています。各人が旅費や手当を節約してため込んでいた「へそくり」を預けていた銀行が倒産して、大損をしたのです。イギリス滞在中の南貞助(長州人で高杉晋作の従兄弟)という者が、「お金は銀行に預けるのがいちばん安全ですし、利息も特別によくしますから」といって「ナショナル・エージェンシー」に預金することを使節団一行に勧めたのですが、彼はこの前後に同銀行の取締役になっていました。南の話を聞いてその気になり、大金を預けた者もかなりいたらしく、鮫島尚信(在仏少弁務使)は2677ポンドを預け、最も損害を被っており、留学生のなかにも被害者がいて、尾崎三郎は2500ポンドを預けていました。岩倉は1127ポンド、木戸と大久保は金額はわかりませんが、やはりいくらか預金していたようです。
  この倒産騒動で使節団が失った総額は2万5千ポンド(12万5千円)にも達したといわれています。当時の富岡製糸場の女工の年給が25円でしたから、被害額がいかに莫大であったかがわかります。ちなみに大使の月手当は500ドル、副使は400ドル、一等書記官250ドルとなっており、それ以外に使節団には各々、一度かぎりの支度金、特別手当が渡米時に支払われていました。

 条約は結びそこない金とられ 世間へ対し(大使)何と岩倉

 という狂歌(木戸の作らしい)はこの事件を皮肉って詠まれたものです。しかし、ナショナル・エージェンシーの倒産はどうも胡散臭く、使節団は嵌められたという感がしないでもありません。この会社の出資者であるボールズ銀行のボストン支店は、同地が大火にあった際に保険会社が総崩れしたことから閉鎖に追い込まれ、それがニューヨーク支店におよび、さらにロンドン本店もだめになりました。その影響でチャリングクロス街で営業していたナショナル・エージェンシーも店を閉じる結果となったのです。要するに、倒産は時間の問題だったわけで、ボールズ銀行頭取のボールズ(米国人)が、総会で日本人である南をにわかに取締役に選出したことも、奇妙な話ではあります。この取締役就任の件については、木戸と大久保は南から相談を受けており、「日本の名誉だ」と二人ともよろこんで賛同していました。

 甘かったと言えば、甘かったと言うしかありませんが、経営難の会社が当面の資金を獲得するために、世間(世界?)知らずの日本人をうまく利用した、という疑いは拭いきれません。いずれにしても、使節団のわきの甘さが露見した事件であり、資本主義の仕組みと厳しさを、高い授業料を払ってイヤというほど学習した、と言うこともできましょうか。

 イギリスでの条約交渉については、3回にわたって行われ、第1回は明治5年10月22日(陽暦11月22日)に岩倉大使とグランヴィル英外相の間でなされました。同席者は杉浦弘蔵(三等書記官)と通訳のアストンで、事前にパークスが議題となる12項目を岩倉に提示していました。しかし、当日はグランヴィルからキリスト教解禁と外国人の旅行の自由についての要望がだされたほかは、突っ込んだ話し合いはなされず、交渉は次回に持ち越されることになりました。
 2回目の会談は10月27日(陽暦11月27日)に行われ、出席者は岩倉のほか、山口尚芳(副使)、寺島宗則(大弁務使)、福地源一郎(一等書記官)、イギリス側はグランヴィル、パークス公使、アストン通訳官の3名でした。この日、グランヴィルは前回に取り上げた、宗教・国内旅行の自由のほかに開港場の問題にも触れて、もっと外国船が入港できる場所を増やすように要求してきました。日本側はその条件として治外法権となる領事裁判権の撤廃を求めましたが、これは日本の法律の不備を理由に拒否されました。さらに横浜に駐屯するイギリス軍の撤退や下関賞金の残額150万ドルの免除についても要請すると、イギリス側はその代償を求めるなど、双方の希望が述べられただけで、妥協点を見出すほどの話し合いはなされませんでした。
 3回目の会談は11月6日(陽暦12月6日)で、前回の出席者のほかに塩田三郎(一等書記官)が通訳に加わりました。といっても、問題の争点は変わらず、日本側の治外法権、関税自主権の回復、イギリス駐留軍の撤退などの要望に対して、イギリス側は治安に対する不安を拭いきれないとして承知せず、米国と同様、イギリスでも条約改正の交渉が容易でないことを思い知らされたのです。

 その後、さまざまな曲折を経て、治外法権の撤廃は明治32年、関税自主権の回復は同44年にようやく実現されたのですが、幕末に結ばれた欧米諸国との不平等条約改正にむけて、明治政府が長い時間をかけて、たゆみなく努力したことの帰結だったと言えましょう。

● イギリスからフランスへ

 明治5年11月16日の早朝、使節団一行はバッキンガム・パレス・ホテルをあとにして、イングランド東南部のドーヴァー(ロンドンの東124キロ)に向かいました。ドーヴァーは白い崖が印象的な丘陵にかこまれた港町で、高台にはフランスの侵攻に備えてか、ドーヴァー城が築かれていました。波止場に着くと、一行はフランスに向かう蒸気船ウェイブ号に乗り込み、ドーヴァー城から発せられた19発の祝砲を聴きながら、およそ4か月を過ごしたイギリスに別れを告げました。

 カレー(パリの北293キロ)の港には12時ごろに到着、捧げ銃で整列したフランス兵にむかえられました。その後、一行が近くのホテルで昼食をとっている間には戸外で音楽が奏でられ、路上には使節団を一目見ようと野次馬があふれていました。ここから汽車に乗り、パリには夕方6時すぎに到着しました。

 その巧緻を凝らした白石造りの市街を星のごとく耀くガス灯に照らされて馬車を走らせ〜

 と久米は初めてみるパリの印象を語っています。一行は凱旋門前の大使旅館まで広いシャンゼリゼ―通りをはしり抜け、「煤煙黒霧の中に踵(かかと)が地につかずして狂奔する倫敦(ロンドン)を出て、さながら天堂に入ったようだ」と、その夢のようなパリの景色を嘆賞しており、同地の言葉の響きにも耳をかたむけ、はやくもイギリスとフランスの違いを体感したようです。


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