木戸孝允への旅 104


維新編(明治6年)


● フランス、ドイツにて(続・岩倉使節団)

 使節団は11月26日に仏大統領ティエールと会見しましたが、この1年前にはパリ・コミューン(1871年3月〜)が生じており、当時、フランスの政情は不安定でした。半年後にはティエールは辞任、内紛時に軍事的手腕を発揮したマクマオン将軍が大統領に選出されています。使節団のフランス滞在期間は2カ月余で、その間に日本では陰暦から陽暦への切り替えがなされ、明治5年12月3日が明治6年1月1日となりました。一行はチュイルリー宮やヴェルサイユ宮殿、ノートルダム寺院、博物館、政府機関、さらに軍事・産業などの諸施設を見学して回る一方で、条約改正についてのフランス側の意見を聞く機会も持ちましたが、概ね米英と大差なく、大した進展はありませんでした。

 木戸はパリから井上馨宛てに手紙を書いており、大久保との意見の相違がうかがい知れます。即ち、欧米の先進文明に感服した大久保は「今日の時勢においては、取り込むだけ取り込み、その弊害があれば、10年か15年後に改めればよいことだ」という考えで、それに対して木戸は「さも大人らしい論に思えるけれども、責任ある立場では賛成しがたい」として、まずしっかりと国の根本を定め、日本に適した制度だけを取捨選択して採用するべきとの、慎重な姿勢を取っています。

 明治6年2月17日、使節団はパリを発ち、同日にはベルギーのブリュッセルに到着。国王レオポルド二世に謁見して、諸施設を見学しました。2月24日にはオランダへ向かい、ハーグにて国王ウイリアム三世に謁見、同様に諸施設を見学。3月7日、ハーグを離れ、エッセン経由で3月9日にベルリンに着きました。当時のプロシャは経済的に発展を続けており、英仏とは異なり、農産物を輸出して得た利益で工業をおこし、外国貿易に繋げていたので、回覧実記には「日本に甚だ類似するところがあり、この国の政治・風俗を研究するのは、英仏の事情より、益を得ることが多いだろう」と記されています。

 3月11日、使節団は皇帝ウィルヘルム一世と謁見し、翌日にはビスマルク、モルトケとも会見しました。ビスマルクはユンカー(領主貴族)出身で、大学卒業後、司法官、行政官、軍隊経験を経たのち、駐仏公使、駐露公使を務め、1862年にプロイセン首相兼外相になっています。軍拡問題で議会と衝突した際には「ドイツ問題は鉄と血によって解決される」という鉄血演説を行って議会をおさえ、対デンマーク、対オーストリア戦に勝ち、1871〜72年の普仏戦争にも勝利して、ドイツの統一を実現、71年3月にドイツ帝国初代宰相に就任しています。
 そんなドイツ宰相の経歴には使節団も注目して、15日にはビスマルク主宰の宴会に招かれて演説を聴き、大きな感銘を受けています。

「ただ今、世界の各国はみな親睦礼儀をもって相交わっているが、それはまったく表面上のことで、内面では強弱相凌(しの)ぎ、大小相侮(あなど)るというのが実情です」と彼は語ります。演説を要約すると、
「私の幼少時、わがプロシャは弱小国でした。国際社会で小国が受けた不当な扱いを、私は決して忘れることはできません。万国公法といえども、大国は自国の都合のいいように利用するだけで、いったん不利とみれば、武力に訴えて、これに従うことはありません。一方、小国は自主の権利を守ろうとしても、大国の巧みな政略にあえば、ほとんどこれを保持できないのが常なのです。小国が対等の権利をもって外交するために、国力をつけ、愛国心を奮励すること数十年におよんで、ようやくわずかにその希望を達することができました。我々は各国に対し自主権の保持を望んだに過ぎないので、わが国の軍事行動が非難されるのは誤解に基づくことで、世の識者も必ず察しているでしょう」

 ビスマルクはまた、東洋に植民地を有する英仏などの侵略的野心がドイツにはないことを言明したあと、「日本においても親交を結ぶ国は多いだろうが、国の自主権を重んずるゲルマン国のごときは、その親睦中のもっとも親睦な国です」と述べました。さらに、「わがドイツは日本との末永い親睦を望んでおり、希望があれば必要な人材を送りたい」という彼の提言に対して、ビスマルクのすすめで彼の右隣に座っていた木戸は、概ね次のように答えています。

「わが日本の人民も、もとよりドイツ人民も少しも異なるところはありません。残念ながら、数百年の鎖国によって世界の形勢にくらく、様々な学問を研究する時間もなく、外交上、遺憾とするところ少なくありません。私の希望としては、努力して、速やかにその地位が向上することを祈るのみです」

 使節団はベルリン滞在中にも様々な場所を訪れています。政府機関はもちろん、劇場、宮殿、公園、病院、牢獄、小中学・大学などの教育施設、漁業、電気、印刷、文化施設に至るまで、貪欲に視察をつづけ、知識、見聞を広めることに怠りありません。一国家のあり方を総合的に掌握し、日本の目的に則した批評を展開して理解を深めたうえで、近代国家形成の工程を考えていたことが察せられます。それだけに新興国家ドイツの状況には、米国・英仏よりも関心が大きかったようです。
 木戸は、日本の文明開化が皮相的で、地に根を張っていないことを嘆き、これではだめだ、という思いを抱いてきました。

「人はその身を病に冒されていても、病気が悪化しないかぎり、その手当を怠るものだ。国の疾病に至っては、その患害は十年、数十年後になって初めて現れてくる。まことに恐るべきことだ」(井上馨宛)

 常に先を読み、未来を予知することが多かった木戸らしい発言であり、だからこそ、事を慎重にすすめ、将来に禍根を残すような政策を回避して、国の損失を最小限にとどめることが重要だと考えたのでしょう。そのために彼は、帰国後に基本となる憲法をしっかり策定し、制定することを最重要課題としたのです。

 さて、使節団の米欧視察中に日本の状況はどうなっていたのでしょうか。留守政府では大蔵省と各省間で紛争がおこり、樺太、台湾、朝鮮などに外交問題も生じて、国内の政情は大きく揺れ動いていました。その対応に苦慮した三条実美から木戸・大久保に帰国命令が届いたのは、ドイツ滞在中のことでした。大久保はベルリンから帰国の途につくことになりましたが、木戸は即刻の帰国には不服で、結局、ロシアを訪れた後に帰国することになりました。3月28日、大久保はベルリンを離れて日本へ、木戸を含む使節団一行はロシアのセントペテルスブルクへと向かいました。

 最初にロシアを視た使節団の印象は、それまでの欧米諸国のそれとはかなり異なっていました。即ち、ロシアはヨーロッパの片田舎で、開化は未だ浅く、茫々たる原野と林の中に粗末な家屋が点在しており、専制政治の下、その富は豪族の手に収められ、人民一般の開化は、なお半開の地位を免れていない、と。
 4月3日には皇帝アレクサンドル二世に謁見し、滞露18日間に諸施設を見学した使節団は4月14日、同地を発って、デンマークに向かいました。その2日後の4月16日、木戸は帰国の途につき、ドイツ、イタリア、スイスを経由し、6月8日にフランスのマルセーユ港を発して、明治6年7月23日、横浜に到着しています。大久保は5月26日にすでに帰国していましたが、当時の日本においては留守政府が実権をにぎっていたので、二人がただちに活動できる状況にない中、維新政府最大の危機が目前に迫っていたのです。


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