木戸孝允への旅 102


維新編(明治5年)


● 木戸、イギリスにて伊藤を叱る

 そもそも木戸は大久保、伊藤が天皇の委任状を取りに米国を離れた直後から、条約改正の交渉を決定したことについて後悔し始めていました。森や伊藤、それに当時の留学生など西洋礼賛派に対して疑惑と批判の目を向けるようになっていたのです。木戸日記にはその気持ちがよく記されています。
 
このたび俄かに大久保、伊藤帰朝して、条約改正の勅許を乞わんとす。今この挙動反顧いたし候に、余ら伊藤あるいは森弁務使等のほぼ外国事情に通ぜしに託し、匆卒(そうそつ)その言に随ひ、天皇陛下の勅旨を、再三熟慮謹案せざるを悔ゆ。 実に余らの一罪なり。 このたびの条約みだりに森、伊藤の唱える所は、外国において結ぶに益ありと云う。而してその実は益はなはだ少なし。(略) 伊藤らニュヨルク(ニューヨーク)より、ただ紙と筆とに託し、余らを教示し、彼すでに論ずると云う。而していまだ聞かざるの事あり。人間の事、論ずるは易くして、実際に所するは難し。今日の事、已(すで)に一着を失す。彼の欲するものはことごとく與え、我欲するものはいまだ一も得る能はず。この間の苦心、またその遺憾なる、ひたすら涙を呑むのみ。(明治5年2月18日記。後半は米国を発つ前に伊藤・大久保連署でニューヨークから送った条約交渉に関する意見書についての感想ないし不服を述べている)
 さらに、3月8日の日記にも、森らに対する大いなる不満の言がみられます。

過日来同氏(森弁務使)の挙動、意得ざるものあり。米人かえってよく我国の情を解し、我国の風俗を知る。然るに当時留学の生徒等も、我国の本来所以を深了せず、容易に米人の風俗を軽慕し、いまだ己の自立する所以(ゆえん)を知らず、みだりに自主とか、共和とかの説を唱え、軽躁、浮薄、聞くに堪えざるものあり。すでに森らのごとき、我国の公使にして、公然外国人中にて、みだりにわが国の風俗をいやしめる風説あり。その他当時の官員中にも、わずかにこの米国に遊歴し、その皮膚を学び、我国を軽視するの徒少なからず。一善挙げては一害の添う。世界古今の通患、善害を顧みず、只管(ひたすら)みだりに雑収するに於いておや。我国を愛し、我人民を思う者、豈(あに)深憂せざるべきや。実に国家を維持するに當りては、一朝山をくだくの断あり。また百年の築堤緩急順序を顧みざるときは、はなはだ危うきものあり。十年後を想像し、懸念夜白真に安からざるものあり。

 このように木戸は、軽薄で急進的な洋化派に対しては用心深くなり、 彼らが国の将来を誤らすことがないよう国家の基本を定め、法を整備する必要を益々痛感するようになったのです。米国滞在中、木戸は教育制度のほかにも法体系を熱心に調査・研究し、かねてからの持論である三権分立の実現に意欲を新たにしていました。ここにも、帰国後における大久保との対立の芽は現れており、伊藤に対しても、行き過ぎた「西洋かぶれ」には不快の念を募らせていました。

 無駄に終わった条約交渉で予想外の長逗留をした使節団一行は大統領グラントに謁見し、送別の宴を設けた後、6月23日にワシントンを発ちました。途中、フィラデルフィア、ニューヨーク、ボストンなどを視察し、7月3日にはボストンから英国船オリンパス号に乗ってイギリスに向かいました。リバプールには7月14日に到着。木戸は日記で「リバプールは当国第一の造船場にて市中も繁栄の様子にて米国とは景様もはなはだ物さびて見へたり」と第一印象を語っています。ロンドンまでは322キロの距離で、汽車で6時間かけて夜11時過ぎにユーストン駅に到着。宿所であるバッキンガム・パレス・ホテルでは駐日公使ハリー・パークスが一行を待ち受けていました。

 前年の夏からイギリスに留学していた養子正次郎がリバプールから同道し、木戸と同じ部屋に泊まりました。正次郎は亡くなった来原良蔵と妹ハルの次男で、慶応2年(1862)に子どものいない木戸家の養子となり、木戸も彼を実子のように可愛がっていましたから、久しぶりの再会で話題も尽きなかったことでしょう。当時は正次郎以外にも多くの留学生がロンドンに滞在しており、木戸の部屋にも連日大勢が押しかけて、ゆっくり休むヒマもなかったようです。そんな中、16日には青木周蔵、品川弥二郎らがドイツから木戸に逢いにやってきました。
 この時期、ヴィクトリア女王は避暑でスコットランドに滞在していたので、使節団一行は女王が戻ってくるまで待たねばならず、イギリス滞在も長引くことになりました。米国での滞在が予定外に伸びたために、イギリス側の使節団接待の予定も狂ってしまったのです。

 青木らが木戸の旅宿を再度訪れたのは17日の夜だったらしく、その際に木戸はキリスト教の問題について青木に詳しくたずねました。伊藤が米国滞在中から米国人の意見をそのまま鵜呑みにして、「日本はキリスト教国になるべきで、そうすれば条約改正もうまくいき、日本の独立も保てます」とさかんに説いていたことが木戸の頭にはありました。その場には青木、品川の他に長州出身の留学生5〜6名が居合わせていました。
「欧米人はなぜこうも宗教に熱心なのか」
 という木戸の問いに対して、青木はまず、キリスト教がヨーロッパに浸透するまでの歴史を語りました。そして、仏教と比較して、ややもすると涅槃の説によって人を無為虚行に陥らせ、その活動を制する感もある仏教よりも優れた面があるように思います、と言い添えました。このように青木が話している最中に、伊藤が部屋に入ってきました。

「物の理を極め知識を深める学問も大事ですが、人の道を説き、その身を正しく修めんと望めば、宗教の力が必要になりましょう」 青木の答えを聞いて、木戸はさらに問います。
「我ら一行中には、(天皇)陛下が率先してキリスト教に帰依し、政府高官もつづいて改宗すれば、国民も漸次これに倣い、日本がキリスト教国になれば、政治上ないし外交上も大いに益するところあろう、と主張する者がいる。これについて君はどう思うか」
 キリスト教には好意を持っていた青木でしたが、この意見には反対しました。彼はヨーロッパで起きた30年戦争、またイギリスにおけるカトリックとプロテスタントとの新旧両派の抗争など、悲惨な宗教戦争の歴史を語り、
「いま天皇陛下に改宗の事を奏請し、一般国民に対して政略的改宗を勧めるならば、国内いたるところに騒乱が生ずることになりましょう。私もまた日本国民の一人です。座して内乱の惹起を見るに忍びません。もし強いて本件を実施されるのであれば、まず私の首を刎ねてから断行していただきたい」
 青木の毅然たる反対の論に、木戸はしばらく感に打たれたように黙っていましたが、突然伊藤に向かって、
「私は西洋学に通じていないので、詳しく事の真意はわからないが、在欧の学生は在米の学生に比べて学問該博深淵にして、理路整然としているように思う。しかるに、いまだに米国にも留学していない者が、みだりに同国の宣教師や浮薄な政治家の言を聞いて、にわかに一種の空想をえがき、軽々しく国家を乱すようなことがあれば実に恐懼に堪えない。青木氏の論ずるところと、君の平生の所説とはまったく反対ではないか。君の言うことはまったく信用できない」
 木戸の激しい怒りの様相に、一同唖然として声も出なかった、と青木はのちに回想しています。

 この時以来、洋行中における木戸と伊藤の交流はほぼ途絶え、約4か月におよぶイギリス滞在中にも、伊藤が木戸の居室を訪れたのはわずか2度ばかりだったといいます。これ以後、伊藤は洋行中に積極的な洋化派に転じた大久保との親交を深め、木戸のほうは次の訪問先フランスでも、専ら青木ら留学生を相談相手とするようになったのです。(つづく)



 補記: 「新島襄との出逢い」 
 本文中に書けなかったので、米国滞在中における木戸と新島襄の出逢いについて、ここに触れておこうと思います。新島は旧安中藩士で、元治元年(1864)に函館からアメリカ船で密出国し、使節団訪米時には米国に滞在していました。彼は使節団のワシントン到着後に呼び出されて田中不二麿文部大丞に会い、教育施設視察の案内と通訳を任されました。明治5年2月14日の木戸日記に、

「今日、西(新)島に初めて面会す。同人は七、八年前学業に志し、脱してこの国に至る。当時すでに大学校を経て、このたび文部の事にも着実に尽力せり。頼むべきの一友なり」

 という記述がみられます。また、新島は3月21日に木戸、田中らとともにコロンビア大学を訪れており、彼の自伝には次のように記されています。

「私は昨日の朝、副使木戸氏や、田中氏や、イートン将軍や、他の四人の日本人と同道して、コロンビア大学へ行きましたが、当地へ来てからの一番忙しい日でありました。(略) 木戸氏は、私と同じ通訳のイートン将軍と私とに、正副使節に当てがわれた特別の室で共に食事を取るように勧めました。食事が始まった時、神への感謝がなされなかったのが残念でした。
 木戸氏は日本に於ける最も力強い人間の一人で、将軍の専制政府を転覆して、新しい、健全な、自由な天皇の政府を樹立する最近の革命で、非常に際立った役割を演じました。彼の態度は大変紳士的で厭味がありません。私は食卓で彼と談笑して、恰(あたか)もアンドヴァーの倶楽部で仲間の学生と話しているかのように振舞いました」
(註: 新島は1870年にアマースト大学を卒業後、アンドヴァー神学校に入学した)

 新島はその後、5月にヨーロッパの教育視察について田中に同道して渡欧。明治7年、帰国後には木戸と再会し、英学校設立の支援を懇請しています。木戸も新島のために資金集めに尽力し、二人は親交を深めていったのです。(弊館の参照記事「木戸孝允をめぐる人々 新島襄と木戸孝允」


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