維新編(明治6年) ● 留守政府 − 土肥政権誕生 新政府発足後、最大の改革(「廃藩置県」)を断行して半年も経たないうちに、木戸、大久保、岩倉といった政府の中核をなす実力者たちが海外使節団の正・副使となり、長期間にわたって日本を留守にするということは、考えてみればかなり思い切った行動だったといえます。廃藩置県によって旧藩主は解任され、東京在住を命じられたとはいえ、藩政府を支えてきた支配層の者たちは未だに在職しており、一刻もはやく中央政府の統制下におく必要がありました。また藩札、藩債の処分もあり、そうした様々な事後処理を行う大蔵省では、大久保不在の間は井上馨がその責務を担っていました。彼は、財政難ということもあって、緊縮財政を採らざるを得ませんでした。 しかし、各省は改革を推進するため、新政策の実行に必要な予算を組んで大蔵省に要求してきました。それに対して井上は、ほとんどの省に対して大幅減の査定額を提示したので、各省に不満が高まり、とくに司法省と井上の対立は深刻化していきました。陸軍省(陸軍卿:山縣有朋)の要求額1000万円に対しては800万円、司法省の要求額96万円に対しては45万円と、半額以下に査定されたため、長州系に有利であるとして、肥前出身の司法卿江藤新平が憤激したのです。また、文部省は225万円の要求額を100万円に減額されたため、大木喬任(文部卿:肥前出身)も反発を強めていきました。こうした諸省間の紛争を、正院のメンバーである三条、西郷、板垣らは積極的に調停する姿勢を見せず、行政能力の欠如を露呈するかたちとなりました。 その後、江藤をはじめとする司法省の高官数名が辞表を提出する事態となり、あわてた三条が井上を説得して、司法・文部省の予算を積み増し、江藤、大木に加えて左院議長の後藤象二郎(土佐出身)を参議に任じることになりました。これが明治6年4月19日のことで、留守政府の参議は西郷(薩摩)、板垣(土佐)、後藤(土佐)、大隈(肥前)、江藤(肥前)、大木(肥前)の6名となり、長州出身の参議は外遊中の木戸ひとりとなって、事実上、土肥内閣が誕生したような状況となりました。5月2日には太政官制の改革が行われ、予算の決定権が正院に移されました。これによって大蔵省は弱体化し、もはやなすすべもない井上は部下の渋沢栄一とともに辞表を提出、その後、尾去沢事件(註1)の発覚もあって、窮地に追い込まれていくことになります。また、高官の任免、裁判の監督についても、参議が関与できるように太政官の規則が改定されました。 5月に大久保が帰国した時には、すでに大隈が大蔵省事務総裁に就いており、こうした留守政府のやり方に大久保も呆れ、憤りを覚えざるをえませんでした。なぜなら、木戸、大久保ら岩倉使節団の主メンバーと留守政府の主要員は、使節団の渡航前に12か条にわたる約定書を取り交わしていたからです。要約すると、
なかでも江藤新平が積極的に関わった司法および太政官制の改革は、外遊組を政府の中枢からはじき出し、とりわけ長州系の政治家を窮地に追い込む要因となったのです。江藤と同じ肥前出身の大隈は伊藤、井上などの改革派とは仲が良く、岩倉、大久保からも信頼されて、「留守政府の目付役」的な立場にありましたが、長州系の政治家が勢力を失っていくなかで態度を豹変し、井上と対立するようになっていきました。一方、大久保は条約改正交渉の失敗もあって、意気揚々と帰国ということもならず、正院のメンバーでもなかったので、しばらくは留守政府のやりようを静観するほかありませんでした。 (註1) 尾去沢銅山事件: 旧南部藩所有の尾去沢銅山にからむ汚職事件。銅山の経営を任されていたのは藩用達の商人村井茂兵衛だった。井上は藩が負うべき負債を村井に負担させ、支払能力がないという理由で、いったん銅山を国有化したうえで、同郷の友人岡田平蔵に好条件で払い下げた。事実上、銅山の持主は井上となり、商売の手段を失った村井は窮乏のうちに死亡。江藤が司法省を動かして井上を糾弾する事態となった。 |