木戸孝允への旅 105


維新編(明治6年)


● 留守政府 − 土肥政権誕生

 新政府発足後、最大の改革(「廃藩置県」)を断行して半年も経たないうちに、木戸、大久保、岩倉といった政府の中核をなす実力者たちが海外使節団の正・副使となり、長期間にわたって日本を留守にするということは、考えてみればかなり思い切った行動だったといえます。廃藩置県によって旧藩主は解任され、東京在住を命じられたとはいえ、藩政府を支えてきた支配層の者たちは未だに在職しており、一刻もはやく中央政府の統制下におく必要がありました。また藩札、藩債の処分もあり、そうした様々な事後処理を行う大蔵省では、大久保不在の間は井上馨がその責務を担っていました。彼は、財政難ということもあって、緊縮財政を採らざるを得ませんでした。

 しかし、各省は改革を推進するため、新政策の実行に必要な予算を組んで大蔵省に要求してきました。それに対して井上は、ほとんどの省に対して大幅減の査定額を提示したので、各省に不満が高まり、とくに司法省と井上の対立は深刻化していきました。陸軍省(陸軍卿:山縣有朋)の要求額1000万円に対しては800万円、司法省の要求額96万円に対しては45万円と、半額以下に査定されたため、長州系に有利であるとして、肥前出身の司法卿江藤新平が憤激したのです。また、文部省は225万円の要求額を100万円に減額されたため、大木喬任(文部卿:肥前出身)も反発を強めていきました。こうした諸省間の紛争を、正院のメンバーである三条、西郷、板垣らは積極的に調停する姿勢を見せず、行政能力の欠如を露呈するかたちとなりました。

 その後、江藤をはじめとする司法省の高官数名が辞表を提出する事態となり、あわてた三条が井上を説得して、司法・文部省の予算を積み増し、江藤、大木に加えて左院議長の後藤象二郎(土佐出身)を参議に任じることになりました。これが明治6年4月19日のことで、留守政府の参議は西郷(薩摩)、板垣(土佐)、後藤(土佐)、大隈(肥前)、江藤(肥前)、大木(肥前)の6名となり、長州出身の参議は外遊中の木戸ひとりとなって、事実上、土肥内閣が誕生したような状況となりました。5月2日には太政官制の改革が行われ、予算の決定権が正院に移されました。これによって大蔵省は弱体化し、もはやなすすべもない井上は部下の渋沢栄一とともに辞表を提出、その後、尾去沢事件(註1)の発覚もあって、窮地に追い込まれていくことになります。また、高官の任免、裁判の監督についても、参議が関与できるように太政官の規則が改定されました。

 5月に大久保が帰国した時には、すでに大隈が大蔵省事務総裁に就いており、こうした留守政府のやり方に大久保も呆れ、憤りを覚えざるをえませんでした。なぜなら、木戸、大久保ら岩倉使節団の主メンバーと留守政府の主要員は、使節団の渡航前に12か条にわたる約定書を取り交わしていたからです。要約すると、

  1. 国書並びに使節派遣の趣旨を奉じて、一致協力し、議論の矛盾や目的の差し違えを生じさせてはならない。
  2. 国内外の重要な事件は互いに報告し、ひと月に2回の書信を必ず欠かさない。
  3. 国内外照応して事務を処理するため、特に大使の事務管理を官員に命じて、これに従事させ、来年大使帰国のうえは、かかる官員と理事官等とを交代させて、外国に派出させる。
  4. 大使が使命を遂げ帰国のうえは、各国において商議および考案した条件を参酌考定し、これを実地に施行する。
  5. 各理事官が自ら見聞し修学して、考案した方法は、酌定のうえ、順次これを実地に施行し、修学し終わらない者がいれば、代理次官がこれを引き継いで完備する。
  6. 内地の事務は大使帰国のうえ、大いに改正するつもりなので、その間はなるべく新規の改正をしない。やむを得ず改正をすることがあれば、派出の大使に照会する。
  7. 廃藩置県の処置は、内地政務の統一を達成する基なので、条理を遂げて、順次その実効を挙げ、改正の地歩となすこと。
  8. 諸官省長官の欠員は別にこれを任命せず、参議が分任して、その規模や目的を変更しない。
  9. 諸官省とも、勅任、奏任、判任のいずれであっても官員を増員しない。もし、やむを得ず増員する場合は、その事由を述べて決裁を乞う。
  10. 諸官省とも、現在雇用する外国人のほかは、さらに雇い入れてはならない。やむを得ず雇い入れる場合は、その事由を述べて、決裁を乞う。
  11. 右院は定例の会議を休め、議題がある場合は正院よりその旨を下し、その都度期日を定める。
  12. 以上の条件を遵守して、違背してはならない。この条件を増やすか減らす場合は、互いに照会して決定する。
 この約定書の署名者は、三条(太政大臣)、岩倉(右大臣)、西郷、木戸、大隈、板垣(以上参議)、後藤(議長)、福羽(神祇大輔)、副島(外務卿)、大久保(大蔵卿)、井上(大蔵大輔)、山縣(兵部大輔)、大木(文部卿)、伊藤(工部大輔)、佐々木(司法大輔)、宍戸環(司法大輔)、徳大寺(宮内卿)、黒田(開拓次官)の18名でした。要するに、外遊組が帰国するまでは、廃藩置県に伴う事後処理以外は現状を維持すること、やむを得ず新規のことを成す場合には大使に照会しなければならないということで、留守組の独断を禁じていたのです。しかし、留守組には「鬼の居ぬ間に洗濯」という気持ちもあったようで、この条件は反故同然となり、大久保・木戸両副使、さらに岩倉大使が帰国するまでには、学制改革、地租改正、徴兵令の施行、身分制改革、太陽暦の採用、司法改革、太政官制の改定等々、新規の改革が次々と行われていきました。

 なかでも江藤新平が積極的に関わった司法および太政官制の改革は、外遊組を政府の中枢からはじき出し、とりわけ長州系の政治家を窮地に追い込む要因となったのです。江藤と同じ肥前出身の大隈は伊藤、井上などの改革派とは仲が良く、岩倉、大久保からも信頼されて、「留守政府の目付役」的な立場にありましたが、長州系の政治家が勢力を失っていくなかで態度を豹変し、井上と対立するようになっていきました。一方、大久保は条約改正交渉の失敗もあって、意気揚々と帰国ということもならず、正院のメンバーでもなかったので、しばらくは留守政府のやりようを静観するほかありませんでした。


(註1) 尾去沢銅山事件: 旧南部藩所有の尾去沢銅山にからむ汚職事件。銅山の経営を任されていたのは藩用達の商人村井茂兵衛だった。井上は藩が負うべき負債を村井に負担させ、支払能力がないという理由で、いったん銅山を国有化したうえで、同郷の友人岡田平蔵に好条件で払い下げた。事実上、銅山の持主は井上となり、商売の手段を失った村井は窮乏のうちに死亡。江藤が司法省を動かして井上を糾弾する事態となった。


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