木戸孝允への旅 106


維新編(明治6年)


● 帰国後の木戸が直面した諸問題

 明治6年7月23日に帰国した木戸が、横浜から汽車で新橋に、新橋から馬車に乗り換えて帰宅すると、大勢の来客が待ち受けていました。翌日も、翌々日も、単に挨拶に来る者、ある種の問題を持ち込む者など、様々な目的を持った人々が引きも切らず訪れて家内は混雑し、応接に苦しむほどでした。なかでも留守政府に不満を抱く長州人は、木戸の帰国をいまや遅しと待ち構えていたようで、実際、彼はこれ以後、後輩たちが関係する問題では、相当に悩み悶えることになるのです。が、これについては後述するとして、国政において、木戸が最初に行ったことは、憲法制定の要を説く建白書(意見書)を提出することでした。

 五箇条の御誓文を基にして正規(憲法)を定めること。これなくば官僚が随意に職権を乱用し、法律は朝令暮改となり、政治に混乱をきたす、という木戸の懸念はすでに司法においては現実のものとなっていました。司法卿から参議となった佐賀藩出身の江藤新平は、かねてから薩長が牛耳る現政権に不満を抱いていました。佐賀藩が戊辰戦争の参戦に出遅れたことが、政治上の発言・決定の場において佐賀藩の立場を弱め、薩摩、長州、土佐の後塵を拝する結果になってしまったことで、彼は相当に悔しい思いをしていたようです。しかし、木戸は幕末から江藤の能力を高く買っていたので、新政府に登用するよう彼を推薦していました。それ以前にも、文久二年(1862)に江藤が脱藩して京都に入り、木戸(当時は桂小五郎)を訪ねて庇護を乞うた際には、木戸は彼をかくまって、いろいろ援助をしています。そうした縁がありながら、このたびの政権主流派の外遊を奇貨として、薩長政権打倒の野心にとらわれてしまった江藤は、これ以後、京都府がかかわる裁判沙汰や『征韓論』政争において、長州閥との対決を深めていくことになるのです。

 木戸が頭を悩ました長州人の問題の中には、前回にも触れた井上馨がかかわる『尾去沢銅山』事件がありました。これに関しては「井上を陥れようとする者の仕業」と言う長州人もいましたが、木戸はさすがに井上のかばい切れない失態を察して、これ以上の疑惑を招かぬよう、銅山のある「奥羽には行くな」と井上に忠告しました。しかし、すでに大蔵大輔を辞めていた井上は実業界に身を置くことを決意し、本格的な鉱山経営を望んでいました。8月末には尾去沢銅山に出向き、その意欲を示すためなのか、「従四位 井上馨所有」という立札を鉱山の入口に立てていました。
 一方、本来なら藩が負うべき債務を押し付けられた上に、鉱山の採掘権をも取り上げられた旧南部藩の用達商人・村井茂兵衛は万策尽きて、やむなく訴訟を提起したのです。これは司法省達第四十六号「地方人民にして官庁より不法の迫害を受くる者は、進んで府県裁判所、若しくは司法省裁判所に出訴すべし」との規定に基づいた行為でした。
 この事件に関して、江藤はただちに部下の島本仲道(司法大丞兼警保頭)に調査を命じました。彼は予算の配分をめぐって激しく対立した井上を、政界追放に加えて、本件で追及して刑に処するつもりでした。
 
 この井上問題と並行して、当時は京都府参事・槇村正直のかかわる『小野組転籍事件』が生じていました。槇村は1834年生れの長州人で、維新後は木戸の推薦によって京都府に出仕しました。そこで彼は積極的な開化政策を推進して、東京遷都後に寂れてゆく京都の活性化に努め、明治6年には権大参事から参事に昇進していました。小野組は京都の豪商(当主:小野善助)で、京都府の御用達をつとめ、三井・島田組とともに国税の取り扱いを任され、京阪間の鉄道敷設計画の資金調達機関にもかかわっていました。その小野組が京都から東京、神戸への転籍を願い出たのです。しかし、京都府は財政上の痛手になることから、転籍を許可しませんでした。小野組はこれを不服とし、5月27日に京都裁判所へ提訴しました。前年の11月に司法卿の江藤が発布した第五十六号布達に、「各人民が此の地より彼の地へ、移住あるいは往来するのを、地方官が抑制して権利を妨げるときは、裁判所へ訴訟して苦しからざること」という一文がありました。小野組はこの布達に従って、訴訟を起こしたのです。

 江藤は司法改革を断行し、全国に裁判所を設けて、それまで地方政府の管轄下にあった裁判権を新設の裁判所に移していきました。最初の東京裁判所は8月に開設され、神奈川、大阪、兵庫、山梨などにつづいて、10月には第15番目として京都裁判所が二条城に開設されました。事務の引継ぎに当たっては、京都府がわは太政官から通達がないという理由で、すぐには従いませんでした。司法省による裁判権の接収について、槇村は大いに不満を抱いていたのです。裁判権につづいて、警察権をも司法省に属することとなり、京都府は人民統治に障害が生じるとして太政官正院へ訴えるなど、当初から京都府と司法省の対立は始まっていました。しかし、江藤は司法卿であり、のちには参議になっていますから、一地方官に過ぎない槇村が敵う相手ではありませんでした。

 小野組との裁判でも、槇村は窮地に立たされていました。木戸の帰国を知ると、槇村は上京して木戸に援助を乞い、その後、京都府顧問の山本覚馬(旧会津藩士)も木戸を訪ねて、この事件について相談をしています。後輩たちのためとはいえ、弁が立ち、才もあり、木戸自ら有能な漢と認めていた江藤新平を敵とするのは、木戸にとっては悩ましいことだったに違いありません。そのうえ、彼は8月末に、乗っていた馬車から路上に放り出され、頭と肩をしたたかに打つという事故にあっていました。後日、はげしい頭痛におそわれ、左足が麻痺する症状が出て、外出もままならなくなっていたのです。それでも、家には来客が途絶えず、ゆっくり養生もできない状況の中、さらに、国政レベルで大きな問題が起きようとしていました。


★ 本106話にかかわる弊館内の記事:
 
憲法制定の意見書
 小野組転籍事件(小説「明治六年秋 十 憂鬱なる日々」より)


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