木戸孝允への旅はつづく 10


青年時代(江戸・京都)

● 安政の大獄

井伊直弼は大老になる前から、条約勅許や将軍継嗣のことで腹心の長野主膳に朝廷工作をさせていました。勅許を得ることには失敗しましたが、慶喜擁立に動いていた薩摩の西郷や水戸の鵜飼父子、福井の橋本が「年長」「英明」「人望あるもの」という文字を内勅に入れさせようとしていたのを、長野は九条関白を口説いてこれらの文字を削らせ、慶福を将軍後継にし易いようにしたのです。
安政5年(1858)6月19日、井伊の独断で勅許のないまま、日米修好通商条約が調印されました。幕府の権威を維持するためには朝廷の意向を無視して、断固たる態度を示すことが必要だと井伊は判断したのでしょう。自由貿易、領事裁判権、関税率の決定権、最恵国待遇の規定など、はなはだ不平等な条約がその後もオランダ、ロシア、イギリス、フランスと結ばれてしまいます。経済力の格差がおよぼす影響や国際法に関して幕吏がいかに無知だったかが知られるのです。
6月22日、一橋派になっていた老中堀田正睦が罷免され、かわって間部詮勝(鯖江藩主)が老中に就任しました。その後、将軍の後継は紀州の慶福とする旨が発表され、まもなく将軍家定は亡くなってしまいます。勅諚にそむいた条約の調印を非難した水戸の徳川斉昭、尾張の徳川慶勝ら改革派大名はすべて隠居謹慎、登城停止などの処分を受け、これが世にいう「安政の大獄」の皮切りとなるのです。

勅諚を無視された孝明天皇は激怒して、退位の意思を表明しますが、廷臣たちに宥められてなんとか思いとどまりました。しかし、井伊直弼が大兵を率いて上京するという噂が伝わり、さらに天皇を彦根城に幽閉するという憶測も流れて、天皇は再び態度を硬化させます。一方、劣勢に立たされた一橋派は体制を立て直そうと、薩摩からは日下部伊三次が京に送られ、京都の水戸藩邸では鵜飼吉左衛門が尊攘志士らを待っていました。彼らは梅田雲濱、梁川星巌、頼三樹三郎、清水寺の僧月照らとともに、水戸の老公を救出する勅命を出させようと、近衛忠熙や三条実萬ら攘夷派公卿に働きかけます。そして、九条関白の反対を押し切って、孝明天皇の強い主張を入れた、違勅を詰問する内勅がついに発せられました。「御三家以下の諸大名が衆議をつくし結束して外夷にあたれ」という、幕府の独裁を否定する内容でした。こうして水戸藩主宛ての勅書が二組の密使によって、東海道と中山道に分かれて特急で運ばれてゆきます。勅書のコピーを作ったのは、幕府の密偵網に掛かることを配慮したからでしょう。写しは朝廷から直接13の有力諸藩にも配布されました。
同じころに、長州藩にも中山忠能、正親町三条実愛の書いた密書が甲谷岩熊という密使によって届けられました。彼はもとは毛利一門の毛利筑前の家来だった人です。乞食の姿で萩に現れて、旧主に面会を求めました。国中に騒擾の兆候があるので、もし急変があれば機に応じて内裏を守護し、天子の御心を安んじれば、まことに天下の忠臣である、といった趣意で、つまり、幕府からの攻撃があれば勤王の旗を掲げて挙兵せよ、というに等しい内容でした。
長州藩は米国との通商条約調印後に相模湾警備の任を解かれて、兵庫警備を幕府に命じられていました。条約で兵庫開港が約束されていたからです。頼みにしていた薩摩の島津斉彬が7月に病死してしまったために、京都では兵庫警備の長州藩の存在がにわかに注目されはじめのです。朝廷は長州藩なら大兵を合法的に摂津に終結できると思ったのでしょう。この密勅が、将軍継嗣問題にはまったく関与しなかった長州藩を幕朝の政争に深くかかわらせる因となるのです。

これより少し前に、萩では京都の情勢をさぐるために藩の若者を送るべきであるという吉田松陰の意見を入れて、6人の軽輩者を京に派遣する決定をしました。その中には杉山松介、伊藤利輔(博文)、岡千吉、伊藤伝之輔といった4人の松陰門下生が含まれていました。また7月下旬には、やはり松陰の推薦で、高杉晋作が文学修業のために江戸に旅立っています(彼にも松陰から密かな任務が与えられていた)。松下村塾生たちが藩外で活動するために、ぞくぞくと巣立っていく時期にきていました。
8月には小五郎が江戸藩邸の大検使役に任命されました。いわゆる財務主任で、毎年銀250匁の機密費が支給され、通例では検使を務めてからこの役につきます。松陰が周布政之助や直目付の清水図書に小五郎を熱心に推薦したことから異例の抜擢となったようです。
江戸では密勅の情報がすでに幕府側にも伝わっていました。9月に入ると京都ではまず梅田雲浜が逮捕され、大老井伊にかわって間部詮勝が入京すると、18日には鵜飼吉左衛門父子が、さらに攘夷派志士との繋がりがあった鷹司家や西園寺家の者も捕えられ、幕府の容赦ない追及の手はしだいに広がっていきました。


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