青年時代(江戸)
● 京の朝廷、政争の渦中に
安政3年(1856)7月、駐日米総領事ハリスが下田に到着しました。8月には下田近郊柿崎の玉泉寺に入って、この地に星条旗を掲げます。安政4年5月、下田条約が結ばれ、在留米人の居留権と領事裁判権の特権が認められました。その後、この不平等条約の改正に日本は苦労することになります。「あとは通商条約を結べばよい」と思ったハリスは将軍家定への謁見を強引に要求します。幕府はこれに屈して、10月にはハリスの登城、謁見が実現しました。家定の虚弱体質や凡庸さは幕府の悩みの種だったので、これをきっかけに、早急に世子を決めて将軍を補佐させようという意見が強まっていきます。ハリスはその後の老中堀田正睦との会見では、貿易の重要性を訴え、アヘン戦争や清国役人がアロー号に乱入した事件後のイギリスの清国侵略を取り上げて日本に脅しを掛けるとともに、アメリカの平和主義を強調しました。
一方、将軍の継嗣問題では、幕府と諸侯の間で深刻な対立が生じ始めていました。水戸の徳川斉昭は一橋家を継いだ実子慶喜を将軍の跡継ぎにして、幕政の改革で主導権を握ろうと画策していました。次期将軍に一橋慶喜を推す大名には松平慶永(福井藩)、島津斉彬(薩摩藩)、伊達宗城(宇和島藩)、山内豊信(容堂、土佐藩)、鍋島斉正(関叟、肥前藩)、徳川慶勝(尾張藩)がいました。しかし、これまで幕政に関与してきた譜代の諸藩は一橋派の動きを快く思わず、まだ弱年である紀州家の徳川慶福を将軍後継に立てるべく、将軍への影響力がある大奥との関係強化を図りました。この南紀派の筆頭が井伊直弼(彦根藩主)でした。
安政4年6月、一橋派に肩入れしてきた老中阿部正弘が亡くなりました。以後は慶永の家臣橋本左内がこの運動に積極的に関与することになります。一方、阿部の後を受けた堀田正睦は、日米通商条約の勅許を得るために、自ら上洛して朝廷の説得に努めました。でも朝廷は水戸藩などの影響もあって、この頃には攘夷論が優勢になっており、結局、堀田は勅許を得られずに空しく江戸に戻っていったのです。その間、攘夷を説く梅田雲浜や柳川星巌ら在京の志士たちもさかんに活動していました。また、慶喜を次期将軍に立てようとする一橋派の橋本左内や斉彬の意を受けた西郷吉之助(隆盛)らも公卿や朝廷を味方にしようと運動していました。すでに京都の朝廷は政争の渦中にまきこまれていたのです。
この頃、長州藩で野山獄にあった吉田松陰は、安政2年12月には赦されて杉家に戻っていましたが、まだ自由に行動することはできませんでした。幽囚室で子弟らに山鹿素行の「武教全書」を講義したり、尊皇攘夷の問題を研究したりして過ごしていました。安政4年11月には杉家内の小屋を補修して松下村塾を主宰することになります。同年、江戸では小五郎が東北地方への視察旅行を計画して、さらに200日の遊学期限の延長を藩政府に願い出て許されています。でも、ちょうどハリスが将軍に謁見することになり、幕府がその警衛を諸侯に命じた時期と重なってしまいました。小五郎は剣術の師斎藤父子の勧めに従ってその様子を観ることになったので、奥州遊歴の志は果せませんでした。翌5年3月、桜田藩邸内で開始された蘭学の会読に参加して、小五郎はなお修業を続けていました。従って、将軍継嗣問題に関わることは一切ありませんでした。
同時期に、小五郎は竹島開拓についての意見書を吉田松陰から受け取っています。竹島は朝鮮の鬱陵島のことで、当時は無人島になっていました。18世紀末から英、仏、ロシアの軍艦が日本海に入り込むようになっており、国防上の問題として、伊勢の郷士松浦武四郎や長府藩の藩医興膳昌蔵らが開拓するべきことを主張していました。萩は日本海に臨んでいるので、松陰は彼らの意見には敏感に反応しました。外国に占領される前に、島の開拓の許可を幕府に願い出る必要があると、松陰は小五郎に熱心に説きました。やがて小五郎はこの問題を、長州出身の医者で幕府講武所の教授になっていた村田蔵六に依頼することになります。だが、その前に幕府の体制に大きな変化が生じました。安政5年4月に、彦根藩主井伊直弼が大老に就任したのです。これ以降、一橋派は劣勢に立たされ、やがて窮地に陥ることになります。
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