木戸孝允への旅はつづく 11


青年時代(江戸・京都・萩)

● 安政の大獄(その2)

高杉晋作が江戸に着いたのは安政5年(1858)8月半ばごろで、ちょうど京からの密勅が江戸の水戸藩邸に届けられた時期でした。高杉は兵庫開港が違勅である以上、兵庫守備の幕命に長州藩は従う必要はないと主張し、松陰も同じ意見でした。ただ、問題は世子の毛利元徳(もとのり)が江戸にいることでした。世子に危害が及ばないように、桂や久坂など江戸の有志と相談せよ、と高杉は松陰に言われてきたのです。彼は入門するはずだった昌平校が満員だったために、大橋咄庵の思誠塾に一時入門したのですが、講義がおもしろくないと言って塾をとび出していました。そして日比谷の藩邸に移り、同志らと毎日議論をかさねていましたが、このとき高杉は20歳。血気盛んな時期でした。
殿さまが攘夷の勅を奉じて、他藩にも働きかけて、京都から江戸に下って将軍に攘夷の実行を献言するべきだ、と高杉は主張しました。小五郎と久坂は、そんな喧嘩を売るようなことに益はないとして、反対しました。すでに江戸で6年を過ごし、他藩の事情にも通じていた小五郎には、高杉の説が通用しないことがわかっていました。高杉は焦燥し、「玄瑞、小五郎らは真の知己、真の良友です。彼らと会するのはもとより愉快だけれど、議論に進展がなく、心中糸のごとく乱れています」と松陰への手紙で不満をもらし、師に同情を求めています。

そうしている間にも、志士らは次々と逮捕されていました。10月には日下部伊三次、橋本左内が、11月には三国大学(鷹司家の儒官)、頼三樹三郎(山陽の息子)が捕えられ、この幕府の強硬策に反幕派の公卿たちも鳴りをひそめているよりほかありませんでした。僧月照は西郷吉之助とともに京都を脱出しましたが、逃げ場をなくして、ともに鹿児島湾に身を投げることになったのです。西郷だけは一命をとりとめましたが、薩摩藩によって大島に流されてしまいました。

小五郎は10月に藩から帰国を命じられたので、斎藤道場の後任の塾頭に肥前大村藩の渡邉昇を指名して、引継ぎをしてから江戸を発ちました。そのころ吉田松陰は京都や他藩の人々に時世を慨嘆する書をさかんに送っており、これが印刷されて京都市中に出まわっていました。久坂や高杉ら江戸にいる松下村塾生たちはひどく心配して、「先生が時世を憤激した手紙をあちこちに送るのをなんとかやめさせてほしい」と帰国する小五郎に頼んだのです。
だが、松陰はさらに驚くべき計画を進めていました。京都で志士たちを弾圧している老中間部詮勝と伏見奉行内藤備後守を討ち果たすべく、在藩の同志17名と血盟したうえで、藩政府に大砲を貸してほしいと願い出たのです。このあまりに大胆な申し出と計画に、手元役の周布政之助はひっくり返るほど驚愕しました。大老井伊を襲撃する計画が水戸、薩摩、越前、尾張の4藩の間で練られているという情報を、松陰は赤川淡水から聞いて、他藩に遅れをとるまいと決意したようです。でも、そんな計画はごく一部の志士たちの間で話されていただけであって、この情報を松陰が入手した時期にはすでに橋本左内は獄中にあり、西郷も薩摩に逃れていたわけですから、計画が実現されるはずもありませんでした。
しかし、時世を憂えていた松陰にとっては、もはや行動あるのみだったようです。藩に迷惑をかけないように有志のみで実行し、失敗したら自分たちだけが死ねばよいのだから「とにかく大砲を貸せ」と言いはるのです。周布は密勅(水戸藩に届けられたのと同じ内容)の返事をするために9月に京都を訪れているので、事態の深刻さを知っていました。返事どころか、彼はもみ消し工作に大汗かかなければなりませんでした。
でも松陰の言動は過激になる一方です。参勤交代で3月に殿さま(慶親)が江戸に行くことになっていたのですが、そうなると世子の元徳とともに父子とも幕府の人質になってしまいます。松陰は殿さまの出府を止めるべきだと主張して、周布を困らせます。井伊直弼を諌めるためだ、とか適当に嘘を言いますが、松陰は「人質になっている状態でそんなことができるわけがない」と周布に言い募ります。「とにかく妄動はつつしんでほしい」と言うと、松陰は怒って「周布は大嘘つきである」と叫び、周布を非難する文章を藩政府のだれ彼に送り付けるので、閉口した周布は、松陰を自宅に拘禁しなければなりませんでした。それでも松陰は周布を罵倒することを止めなかったので、これはもう松陰を野山獄に入れるしかない。だが、その前に小五郎の帰国を待って、松陰の説得を頼もう、と万策尽きて、彼は小五郎の帰国を待つことにしました。

小五郎は山口に到着してから、すぐに萩には行きませんでした。この夏に、彼は同じ大組士宍戸平五郎の娘、富子と婚約していました。富子は数え年17歳で、二人はまだ会ったことがなかったのです。このとき、彼は初めて婚約者の家を訪問しました。和田家の財政を管理していた使用人の友蔵がコレラで亡くなったので、結婚を急がなければならないと思ったようです。
小五郎が松陰に会いに行ったのは12月24日の夜で、その夜はしんしんと雪が降っていました。


前へ  目次に戻る  次へ