維新編(明治7年) ● 政府分裂後の不穏な動き 翌日、西郷は辞職願いを正院に提出し、小網町の私邸から忽然と姿を消しました。24日には征韓派の板垣、江藤、副島、後藤の4人も辞表を提出、そのまま受理されました。ただし、西郷については参議と近衛都督の辞任のみが認められ、陸軍大将については留任という措置がとられました。その後、薩摩出身の桐野利秋、篠原国幹など近衛士官で職を辞した者は百余人にものぼりました。木戸は当時の日記で、「西郷隆盛辞職するときは、近衛の士官ら己の本職を忘れ、気随勝手をもって、みだりにその職を辞する。天子の親兵たる如何を知らず、政府および全土億兆を保護する如何を知らず。陸軍省も未だ根本確として動かざるの處に至らず。慨嘆長息の至りに堪えず」 と嘆いています。木戸は外遊中に西郷(参議)の陸軍大将就任を知って、「政治家が軍職を兼ねるべきではない」とわざわざ海外から井上や山縣などに手紙を書いて、猛烈に反対していました。したがって、今回の政府分裂後の組閣においても、山縣(陸軍卿)が参議の職に就くことに反対し、また自身が推されて近衛都督を兼ねることについても、決して承知しなかったのです。その後成立した木戸、大久保を除く新内閣の顔ぶれは以下のとおりです。 大隈重信(参議・大蔵卿) 大木喬任(参議・司法卿) 伊藤博文(参議・工部卿) 勝安房(参議・海軍卿) 寺島宗則(参議・外務卿) なお、大久保(参議)は内務省が新設された11月に内務卿を兼務、木戸(参議)は近衛都督、大蔵卿、陸軍卿など、様々な職の長を固辞した末に、翌明治7年1月、ようやく文部卿兼任を承諾することになりました。これ以上の抵抗は、新政府の発足に支障をきたすと腹を据えたのでしょう。伊藤の昇格は木戸が熱心に推挙した結果であり、勝(海舟)の抜擢は旧幕臣に対する配慮だったと思われます。新政府の陣容はなんとか整いましたが、西郷および征韓派下野後の不穏な空気は帝都においても、地方においても感ぜられ、実際、岩倉が帰宅途上で何者かに襲われるという事件が起きたのです。 岩倉、襲わる! 1月14日、午後8時頃のこと、岩倉を乗せた馬車が赤坂の仮皇居を出て喰違の土堤に差し掛かったとき、前方の闇の中から7〜8人の人影が「国賊!」と叫びながら、抜刀して襲い掛かってきました。岩倉は白刃が幌に突き刺さった刹那に、馬車からころげるように地上に降りたちました。眉間と腰を刺されましたが幸いにも浅手で、必死に逃げまわるうちに濠の中に転落してしまいます。彼はそのまま水に浸かった状態で枯草の闇にかくれていました。賊があきらめて立ち去った気配を感じて、水際に這い上がったところで、通りかかった宮内省の下僚に助けられ、虎口を脱することができました。 この事件が発足間もない新政府に衝撃を与えたことは言うまでもありません。内務卿大久保は大警視川路利良、大警部中川祐順を使って、犯人の捜索に全力を傾注しました。現場に残された足駄や手拭などの遺留品や車夫の話などから、賊は土佐人と判明。17日には武市熊吉、山崎則雄など5人が、その後さらに4人が捕えられましたが、その約半数は陸軍の将校、下士官でした。土佐人は西郷とともに下野した者が多く、やがて土佐は反政府派の一大拠点となってゆくのです。 板垣退助は江藤、副島らとともに愛国公党を結成し、1月17日には木戸と接触、民選議員設立の建白書を示して木戸の意見を請いました。木戸はすでに憲法制定の建白書を「新聞雑誌」(註)に公表していたので、板垣は政府内の改革派を牽引してきた彼の支持を期待していたのでしょう。木戸はこの建白書に賛意を表したようです。しかし、伊藤は木戸と板垣の会合を知って驚き、板垣には気を付けるように、手紙で注意を促しています。岩倉襲撃の事件から間がなかったので、余計、土佐人の動きを警戒したのだと思われます。 不穏な動きは土佐ばかりでなく、佐賀においてもみられ、政府要人の暗殺未遂を超える、大きなうねりが生じようとしていました。(つづく) (註) 「新聞雑誌」: 創刊号は明治4年5月刊行。定価は銀二匁、発行所は日新堂。のち「曙新聞」と改題。木戸孝允の支援により山県篤蔵(元長州藩蔵版局知事)が新聞社を経営し、初期は月3回、明治7年2月以降は隔日発行された。 ★ 本110話にかかわる弊館内の記事: (十六) 新たなる対立 |