維新編(明治7年) ● 佐賀の乱で木戸・大久保結束 征韓論をめぐる政争に敗れた西郷、江藤、副島らは、東京に留まることを条件に辞表が受理されたのですが、西郷はすでに無断で鹿児島に帰っていました。江藤も帰郷を望んで12月28日、病気療養を理由に離京の許可願いを提出しました。佐賀では江藤、副島の辞任が伝わったときから、征韓論者の勢いが急激に強まって征韓党を結党、代表者4名を東京に送り出して、江藤の帰郷を懇請していたのです。しかし、佐賀における不穏な動きを政府はすでに察知していたので、これを危険視して、その請願を却下しました。江藤は諦めずに年あけに再度同じ願書を提出し、副島もこれに続きました。この時期には、民選議員設立の建白書や愛国公党の結成に関する会合で、板垣が両者を引き留めていました。 江藤、副島は、自分たちが帰郷しなければ、どのような事件が起こるかわからないので、沈静させるために帰るのだと言います。板垣が「二人が帰郷すれば、火に油を注ぐようなもの。必ずその渦中に巻き込まれるから、東京に留まって指導すればよい」と主張したのに対して、「では、副島が東京に残り、自分が一人で帰郷する」と江藤が答えました。のちにはその通りになるのですが、その前に、大隈も「ミイラ取りがミイラになるおそれがある」として江藤を引き留めています。また、木戸も江藤の帰郷を危ぶんで、わざわざ人をやって彼を引き留めようとしたけれど、間に合わなかったようです。木戸は同郷の槇村正直(京都府参事)が関与する『小野組転籍事件』や井上馨がからむ『尾去沢銅山事件』などで司法卿であった江藤にはずいぶん苦しめられたのですが、江藤の才能に対する評価を最後まで変えることはなかったようです。 明治7年1月13日、政府からの許可が下りないまま、江藤は帰郷してしまいます。なお、横浜で同船した山中一郎(佐賀)、永岡久茂(会津)、林有造(土佐)らは神戸から江藤と別れて鹿児島に向かっています。西郷と会ってその心中を探り、同地の情勢もうかがう目的だったのでしょう。一方、佐賀では征韓党の者たちが江藤を待ち受けていました。「わが佐賀人士は議論ばかりして、実行力に欠ける」と彼らは訴えます。 「戊辰の役で我々が薩長の驥尾(きび)に付せざるを得なかったのは、そのためだ。今日、わが党が率先して事を成さなければ、また他者の後塵を拝することになる」 討幕戦に出遅れたことで、維新政府における佐賀藩の立場がぜい弱なまま今日に至っていることが、よほど悔しかったのでしょう。もう二度と同じ轍は踏まないという決意で、江藤を主将にむかえて征韓の目的を真っ先に遂げようとしていました。 鹿児島に向かった林らは西郷と面会しましたが、西郷はいまだ機は熟せずとして、佐賀の有志と行動を共にする意思のないことを明らかにしました。林は西郷が起たなければ事がうまく運ぶはずがないと考えて、その態度を一変しました。しかし、林から話を聞いた江藤は、西郷がむやみに心底を吐露するはずがないと疑り、なお期待を失わなかったのです。それに、佐賀の士気は高まる一方で、今さら自重論を唱えてもおとなしく従うとも思えず、かえって身に危険がおよびそうな情勢でした。いったん佐賀が事を起せば、薩摩も、土佐も、呼応して起つに違いない、という甘い期待も抱いていたと思われます。江藤は征韓論政争の際に、西郷を利用して薩長政権を揺るがし、司法卿としての権力を行使して、井上ら長州出身の政治家を政府から追放するなど、相当な手腕を発揮してきましたから、ある種の自信もあったのでしょう。 当時、佐賀には征韓党のほかに憂国党という組織がありました。この党は政府の洋化政策に反対する守旧派の集まりだったので、征韓党とはその目的を異にしていましたが、中央政府に不満を抱いていることでは両党とも共通していました。憂国党が政府内で頼む人物は島義勇(よしたけ)で、彼は副島種臣の従兄弟にあたり、戊辰の役では佐賀藩、次いで大総督府の軍監を務めており、維新政府では侍従として明治天皇の撃剣や腕相撲のお相手もしています。その後、秋田県権令となり、明治5年6月からは職を辞して東京に戻っていました。佐賀の情勢が不穏な折に、島は三条の要請により、江藤とは別に同郷の有志を説得するために帰国の途についたのです。その島が憂国党の首領になって決起することになろうとは、彼を信頼していた三条、岩倉らは予想もし得ませんでした。 島を叛徒がわに追いやったのは、ある出来事が影響していました。2月7日、島が東京を発って横浜に到着した際、偶然、佐賀に赴任する岩村高俊(権令)が同じ船に乗り合わせたのです。彼は船中で、佐賀人がなにか事を起そうとしているようだが、文弱、烏合の衆になにができるか。自分がこれに臨めば直ちに鎮圧してやる、などと大口をたたいて周囲もはばからない様子でした。その傲慢無礼な態度に島は憤激してしまったのです。岩村は下関で下船したので、島は不審に思って同行の中島錫胤(権中判事)にたずねると、 「政府は佐賀征討の準備を急いでいるので、鎮台兵を率いて任地に赴くつもりでしょう。長州兵500人ほど借り受けるとかいう噂もあります」 中島の返答に島は驚愕し、内心穏やかではありませんでした。船が長崎につくと、江藤の使いが彼を待ち受けており、二人は同地の旧家老邸で面会しました。島は保守派でしたから、もともと江藤とはそりが合わなかったのですが、共通の敵を前にして急速に接近しました。結局、江藤率いる征韓党と、島が率いることになる憂国党は、この郷土の危機に一致協力して立ち向かうことで合意したのです。 ――旧主並びに父母墳墓の地、一時焦土と相成り候に堪えがたきの至上より、図らずも彼が誘導に応じ、同心戮力(りくりょく)すべき相答え〜 のちに島は口述書でそう述べています。こうした佐賀の不穏な動きに、誰よりもはやく反応したのは大久保でした。彼は征韓論政争に勝利した際に、けっしてこのままでは収まるまいと予感していたようです。佐賀が事実上、征韓派の支配下に置かれており、暴動も起きているという情報が2月3日に入ると、翌日には西郷従道(陸軍大輔)を呼んで、鎮台兵の手配を命じ、さらに新任の権令・岩村を佐賀に派遣することにしました。そればかりでなく、自ら現地に赴いて鎮圧にあたりたいと、岩倉、三条に願い出たのです。早急に手を打たなければ、佐賀の騒動は九州各地に飛び火して容易ならぬ事態を惹起する、という強い危機意識が大久保にはありました。しかし、大久保が東京を離れることを両大臣は不安視して、なかなか了解を得られそうにありません。 三条らは木戸の意見を気にしており、大久保も木戸の協力なしには九州への出張はかなわない、とわかっていたので、まず木戸の同意を得るべく手紙を書き、さらに木戸邸を訪ねて協力を請うたのです。大久保と同様、木戸も佐賀の騒乱が一大事を引き起こしかねないという危機感を抱いていました。そこは薩長同盟以来の盟友で、一面では反発しあっていても、いざというときには結束するのが常でしたから、両者は今回も一致協力することで互いの意思を確認しました。実は、木戸自身も自らの九州出張を申し出ていました。しかし、国内の治安については内務省の管轄であり、健康も万全ではなかったので、大久保がその任に当たってくれるなら、木戸に異論があろうはずもありません。問題は大久保の不在中に誰が内務卿の代理を務めるかでした。 伊藤はまだ若いし、周囲を見まわしても適任者は木戸以外に見当たりません。そこのところは彼も心得ていて、留守中の内務省は自分が引き受けるから、速やかに九州行きを決議しましょう、と言うと「大久保は大いに歓喜して去った」と木戸日記に記されています。木戸は大久保に懇請された、三条や岩倉の説得にも努め、両大臣も木戸と大久保の協力態勢が固まったことを知って安堵し、同意することになったのです。 2月10日、大久保は三条太政大臣から司法・軍事の全権を委ねられて、本件に関する一切の処分を独裁できることになりました。もとより、これは大久保自身の希望だったに違いありません。 2月14日、大久保は準備万端整えて、横浜から海路、九州へ向かいました。江藤が「決戦之議」と題する檄文を草して挙兵したのは同じ日でしたから、大久保がいかに迅速に行動したのかがわかります。江藤は長崎から佐賀にもどった際に、熊本鎮台の兵が佐賀に向かっているという風説を耳にして、決起の覚悟を固めたようです。座して死を待たんよりは、むしろ我より先んじて彼を制するに如かず――と。 江藤が本営を市の郊外において戦闘の準備をしている間に、海路から佐賀に進攻した岩村率いる鎮台兵は半大隊、わずか330余人で佐賀城を占拠してしまいました(当時、藩主・鍋島直大は海外にいて不在)。しかし、その日の夜、佐賀兵が城を包囲して猛攻撃を仕掛け、3日後には城の奪還に成功しました。鎮台兵は大砲を持たず、銃弾も不足し、食糧の備えもなかったために、やむなく脱出しますが、この籠城戦で全体の半数以上の死傷者を出しています。岩村は一時、行方不明と報じられ、まもなく生存が確認されたのですが、政府にとって、この敗戦の報は衝撃だったに違いありません。功を焦ったのか、わずかの兵力で敵地に入った岩村の采配にも大いに問題があったと言えましょう。 この戦闘から4日後の2月22日、大久保率いる増援軍が佐賀の叛乱軍と朝日山、中原方面で衝突、激戦におよびました。一時は優勢に戦っていた叛乱軍も、官軍別働隊の加勢に対して支えきれずに敗走。翌23日、叛乱軍は神崎方面で反撃を試みるも挽回ならず、周囲に火を放って退却しました。佐賀に帰った江藤は、もはやこれ以上の戦いは不利とみたのか、全軍に解散を命じたのです。同夜、彼は数名の同志(15名とも)とともに佐賀を脱出し、丸目村から漁船に乗って鹿児島に走りました。江藤逃亡の一報に、佐賀兵が急速に戦意を喪失したことは当然のことだったでしょう。 2月28日、官軍は佐賀城に入城しましたが、そこに征韓・憂国両党の幹部は一人もいませんでした。大久保は逃亡者が全員捕縛されるまで、気を緩めることなく徹底的に捜索するつもりでした。 3月に入ると、三条、岩倉は佐賀の乱が一段落したとみて、大久保の帰京をしきりに促してきたのですが、彼はとりわけ賊軍の首魁・江藤新平を捕えて処分するまでは、東京には戻らぬ決意を固めていました。 |