木戸孝允への旅 109


維新編(明治6年)


● 反征韓派の大逆転−『征韓論』のゆくえ(後編)

 その日、三条は責任の重大さを感じて、岩倉にその心情を打ち明ける手紙を送りました。「論を変えたことは申し訳なく、大久保の不満は大きいだろうが、西郷の進退については大変な問題であると心配した次第です」などと記しており、やはり、西郷辞職の結果がもたらす混乱、軍部の動静を危惧していたことがわかります。三条の意見に同調してしまった岩倉も大久保に対して面目なく感じており、三条の手紙を添えて大久保に一書を送り、謝罪の気持ちを伝えました。そして、しばらく持病の治療に専念したいと言いながらも、善後策を講じようと、伊藤と大隈を私邸に呼んで相談しています。大久保を裏切ってしまったことを、相当気に病んでいたのでしょう。
 
 一方、大久保は休み明けの17日、三条邸を訪れて、辞表とその理由書を提出しました。三条が狼狽している中、今度は木戸家から使いが来て、大久保と示し合わせたように辞表を差し出したのです。同日、岩倉は大久保から辞表の写しを添えた手紙を受け取り、当惑するとともに後悔の念にかられます。大久保と行動を共にして、失った信頼を回復したいと思ったのでしょうか。岩倉は自らも持病を理由に辞意を表明する手紙を、ただちに三条宛に送っています。
 岩倉の辞表は三条にとって思いもよらないことでした。頼りにしていた岩倉にまで見放された三条は打ちのめされてしまいます。その日の閣議には反征韓派の面々はひとりも出席せず、三条はたった一人で遣韓使節の問題を処理しなければなりませんでした。

 大久保が辞表を提出したことを聞いた西郷は、
「やはり薩人一の腰抜けじゃった。辞表、はよう聞きとどけてくれやったもんせ」
 皮肉に笑いながら、閣議の結果を速やかに奏上し勅裁を得るように、三条に迫りました。三条は己独りの責任で決する勇気がなく、「国家の大事なので、なお岩倉に相談してから決定したい」と引き伸ばしを図ります。しかし西郷は、すでに決定していることだからその必要はない、と言いはります。その時、後藤象二郎が、「一日だけなら待ってもよいのでは? もう決定が変わることはないのですから」と両者の間にはいって仲裁したので、西郷も渋々ながら承諾しました。その場からようやく解放されたものの、西郷の要求から逃れられるわけではなく、三条は帰宅してからも悶々と悩み続けることになりました。その後、彼が発熱し人事不省に陥ったのは18日早暁のことでした。

 この思いがけない出来事が政局に一大作用をおよぼし、両陣営の運命を逆転させることになるとは、だれが想像できたでしょうか。三条公発病の報を聞いた征韓派の板垣は、「西郷を太政大臣に、副島を右大臣に任命せよ」と主張して、反征韓派の反撃を抑え込もうとしました。しかし、倒れた三条に次ぐ地位にあるのは岩倉であり、彼を差しおいて西郷が同職に就くことにはさすがに無理があります。こうなると、岩倉の動きが重要になってくるわけで、伊藤はすばやく行動を起こしました。彼は岩倉邸を訪れて、「この上は右大臣自ら身を挺して難局の打開にあたるべきです」と決意を促します。岩倉も大久保の信頼を回復しようと、自らの役割に徹する意思を伝えたのです。岩倉の気持ちを確認した伊藤はその後、大久保邸にはしって、このうえは辞意を翻して岩倉を援けるよう、尽力を請いました。

 しかし、大久保の返事は「考えておきもそ」と慎重で、この時点では積極的に動く様子はありませんでした。おそらくは、三条の病状、岩倉の本気度、木戸の意見などをしっかりと把握しておきたかったのでしょう。さらに、伊藤は木戸と会って、大久保のことを相談しました。木戸以外に大久保を動かす者はいないと思ったのか。木戸も、伊藤の期待に応えて、すぐに大久保に手紙を書き、自らの想いと激励の言葉を伝えました。自分は体調不良で思うように動けないことが残念だが、
―‐願はくは、老台岩公をこの上ながらご補佐、患害の蔓延をなるべく丈長からざるのあひだご料理あらされたく、千祈万祈奉り候。

 木戸が自分とともにあることを確認した大久保は、なお用心深くはありながらも、彼に配慮を示す返書を送りました。翌日、大久保は三条邸を見舞いに訪れ、病状がすぐには回復しないことを知り、真剣に思いをめぐらしはじめました。帰宅後、伊藤と同様、反征韓派の黒子となって動いていた黒田清隆が大久保をたずねてきました。かねてから江藤や後藤ら土肥出身者の薩長政権打倒の動きを快く思っていなかった黒田は、何とかならないものかと焦燥していました。このまま征韓派が突っ走っては清国、ロシアとの関係もどうなるかわからない。黒田は自分の憂慮を告げて、打開策を問いました。大久保はほかに挽回の策はないが、「ただ一の秘策あり」と答えます。

 三条公が倒れて病床にある以上、岩倉を太政大臣代行とすることにはだれも反対はできまい。だが、そのまま条公の代理に納まるなら、条公の意思を継ぐだけで現状はなにも変わらない、と大久保は言います。つまり、三条からではなく、天皇から直接代行に任命される必要がある。それには、まず宮内少輔の吉井友実(薩摩人)に話をつけ、彼をして宮内卿の徳大寺を説かせ、お上が三条公を見舞い、その後に岩倉邸を訪れていただくようにする。そうすれば、太政大臣の全権は岩倉に引き継がれ、岩倉個人の意見で物事を決することができる――。

 黒田は大久保の意図するところをすばやく悟り、自らの意見としてこれを実行しました。征韓派が大久保の影をみて警戒しないようにするためでしたが、黒田のこうした働きかけは功を奏したようです。翌日、天皇は三条邸に臨幸して実美の病を見舞い、その後、馬車は岩倉邸に向かい、太政大臣代摂の命を具視に伝えました。すべては大久保の思惑どうりに運んだのです。あとは岩倉が最終章に入ったこのきわどい政治劇で、西郷らを相手に、自分の役をどれだけ完璧に演じきれるかどうかにかかっていました。
 翌日、伊藤は大久保から呼ばれて、売茶亭に向かいました。他に来客があることをきらって、自宅での会談を避けたのです。謀(はかりごと)は密ならざれば害なりとの義もこれあり――(大久保の伊藤宛手紙より)

 この間、ひとつの心配事が持ち上がっていました。座敷で挨拶を交わしたあとも、大久保は深刻な表情をしていました。
「なにかあったのですか」 不審に思って、伊藤がたずねました。
「副島が、岩倉が太政大臣を代行するなら、もう一度閣議を開く必要がある、と言い出した」
 と大久保は答えます。西郷、板垣、後藤、江藤らも副島の意見に賛同したらしく、さすがの大久保も不安な気持ちを隠せませんでした。再度の閣議となれば、そこに反対派はひとりもおらず、またしても西郷らに圧倒されて岩倉が変節してしまうのではないか。大久保は、そうした事態を恐れたのです。たしかに、またの閣議は内治派にはまったく不利であることは明らかでした。岩倉が直接天皇に自らの意見を述べて、両論を説明したうえで聖断を仰ぐべきである、と両者の意見は一致し、伊藤が岩倉を説得することになりました。

 その日のうちに、伊藤は岩倉邸を訪ねて、「閣議を開かないでいただきたい」と頼みました。しかし、岩倉の返事ははっきりしません。伊藤の懸念を理解しているようにも思えませんでした。ひょっとして、岩倉はすでに西郷と通じているのではないか? やはり彼は西郷を恐れているのだ――伊藤はあきらめて岩倉邸を辞すると、ただちに木戸邸に向かいました。真っ青な顔をしてあらわれた伊藤を見て、木戸は、いったいどうしたのか、たずねました。
「副島の意見に他の参議らも賛同し、閣議が再開されるのです。岩倉大臣もこれを許したそうです」
「なんだって?」
 自分たちはすでに辞表を提出しており、出席者が征韓派ばかりの閣議では勝ち目がないことを、木戸も十分に理解していました。大久保の「起死回生の策」はもはや、水泡に帰そうとしていました。
「我々は岩倉に裏切られたのです。もはや万事休しました」
 伊藤は感情を抑えきれず、わっと床に突っ伏して泣き出しました。普段は陽気な男の号泣をはじめて耳にしながら、木戸は呆然とその場に立ちつくすほかありませんでした。

 岩倉が三条太政大臣の代摂として出席する閣議の開催は10月23日に決定されました。留守政府、外遊組の政争に終止符が打たれ、西郷、大久保、木戸らの運命が決せられる時が迫ってきました。岩倉はいかなる覚悟をもって西郷渡韓に関する最終閣議に臨もうとしていたのか、本人以外は知る由もありません。ただ、この政治劇の幕が、23日を待たずして上がることについては、岩倉も想像していなかったに違いありません。前日(22日)、突然、西郷、副島、板垣、江藤の四参議が岩倉邸に押しかけてきたのです。閣議が開かれる明日まで待てなかったのか、理由は定かではありませんが、いずれにしても岩倉は今、西郷の大きな威圧的に輝く両眼と対峙しなければならない事態におかれていました。

 いかなる御用かな、と岩倉は見たところ平静に客たちにたずねました。西郷は、
「ご存じのとおり三条公の御病気で、遣使についての上奏が遅れている。閣下においては明日にも代わって宸裁を仰いでいただきたい」
 予想どおり、催促に来たようです。岩倉は、自分の意見は三条とは違うので、両論併せて奏上し、陛下に可否を委ねることになろう、と返答します。すると江藤が、それはおかしい、と口をはさみました。
「代任者は原任者の意見を遵奉するものであり、両説を具えて可否を陛下に委ねるのは、国務の責任を負う大臣のなすべきことではない」
 江藤の意見も一理ありました。しかし、ここで大久保の秘策が生きてくるのです。自分は三条公に代わってこの職に就いたのではない、と岩倉は反論します。
「勅諚を奉じて太政大臣のことを摂行するのだから、自分の意見を併せて具奏してもなんの不都合があろうか」
 宮内省を動かし、天皇の岩倉邸臨幸を実現させたことが、岩倉の今の立場を是とする根拠になったのです。
「遣使のことはすでに三条公からの内奏により、ご裁可が下ったこと。それを今さらご詮議なさるのは、かえって聖意に背くことになり申さぬか」
 西郷がまた反駁しましたが、即座に岩倉が言葉をかえしました。
「なんといっても、拙者はご再議に附する」
 その後、しばらく激論が闘わされましたが、岩倉は泰然として動じる気配もありませんでした。そして、押しかけ組を黙らせる最後の言葉が発せられます。

「予が眼晴の黒きあいだは、卿らの好きなようにはさせぬ」

 西郷は、もはや岩倉を論駁することの不可能を悟ったようです。
「すでに事は決した。これ以上、わしらにはいかんともし難い」
 西郷が座を起つと、他の三人も急いであとにつづきました。門を出るとき、西郷は三人を振りかえって、
「岩倉はにわかに今弁慶になりもしたな。これも畢竟、大久保・木戸の後盾あればこそでごわんそ」
 よくも踏ん張った、と西郷は敵となった岩倉の奮闘を称えたのです。


★ 本109話にかかわる弊館内のさらに詳しい記事:
  明治六年秋(十二) 征韓派の勝利 (十三) 反征韓派の攻勢 (十四) 疑惑 (十五) 大逆転 − 岩倉の啖呵


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