木戸孝允への旅 112


維新編(明治7年)


● 台湾出兵と木戸の下野

 本題に入る前に、佐賀の乱に敗れた江藤新平の捕縛、刑死にいたる経緯を述べておこうと思います。
 佐賀を脱出した江藤は2月25日に鹿児島の米の津に到着し、宇奈木温泉で遊猟中の西郷を訪ねました。西郷は江藤の来訪に驚いたようですが、快く面会に応じました。江藤は再挙への協力を求めて西郷を説得、一時は激論におよびましたが、ついに彼を動かすことはできませんでした。江藤には「援兵が無理なら、周旋を」という気持ちもあったようですが、相当に虫の良い話であり、「自らとった行動については、自ら責任を負う」という前提で、自首するか、自決するか、あるいは島津公に頼るか、西郷は暗示的に忠告したと推測されます。

 西郷説得に失敗した江藤は鹿児島を離れ、日向飫肥(おび)で小倉処平(征韓論者で辞職し帰郷)に用意してもらった舟で愛媛、高知にわたり、林有造(板垣とともに辞職)、片岡健吉(辞職、林らと「立志社」設立)らと会いました。しかし、江藤の手配書はすでに各所に出回っていて官憲の追及の手はきびしく、高知からさらに阿波国境・安芸郡甲の浦まで逃走したところで追い詰められ、3月28日、ついに逮捕されました。最初は山本清の変名を用いていましたが、手配写真と酷似しているうえに、政府宛に書いた(東京への移送を請う)手紙の署名を見られたことから、欺ききれないと観念したようで、翌日には江藤新平、本人であることを自ら名乗り出ています。

 4月7日、江藤はその意思に反して佐賀に護送され、臨時裁判所で裁かれることになりました。裁判長はかつての部下だった河野敏鎌(とがま: 元土佐勤王党)で、形ばかりの審理をへて、4月13日には江藤に対して「除族のうえ、梟首申し付ける」という判決が下されました。すでに3月7日に捕えられていた島義勇も同罪で、他11名は斬首とされ、即日刑が執行されました。
 死に臨んで江藤は天をあおぎ、「ただ皇天后土(こうてんこうど)の我が心を知るあるのみ」と3度高らかに叫んだ、と伝えられています。享年41。

 大久保日記には裁判の様子について、「江東(藤)陳述曖昧、実に笑止千万、人物推して知られたり」と記されており、彼の江藤に対する感情を垣間見ることができます。事実を淡々と述べたのだとしても、江藤の極刑は最初から大久保の胸中で決せられていたようです。自分の留守中に大蔵省の権限を著しく侵したことに対する怒り、また江藤に続こうとする者に対する見せしめの意味もあったと思われます。今回の政変で崩壊しかけた明治政府の基盤をしっかり固めるためには非情に徹して、他者の批判、非難もいとわない、大久保らしさの顕れでもありましょうか。現に、この性急な裁判のやり方を批判する者がいて、敵方のみならず、大久保とは共闘する立場にあった木戸もその一人でした。

 大久保の佐賀行き後は、木戸は内務省と文部省の長を兼ね、連日予想以上の精勤ぶりで岩倉や三条を安堵させ、喜ばせていたのですが、すでに不満の火種は大久保の帰京前に生じていました。政府内に台湾への出兵計画が持ち上がっていて、木戸はこれに反対していたのです。この台湾問題は明治4年12月、琉球民の船が難破して台湾に漂着した際に、69人のうち54人が原住民に殺害されるという事件が発端でした。江戸時代、琉球は薩摩藩の支配下にあった一方で、清国にも朝貢してその使者を歓待するという、いわば日・清両属のような形態になっていました。この琉球民殺害事件について、外務卿の副島種臣が清国に赴いて交渉を開始しました。しかし、清がわは、残存者は保護して琉球に送り返したこと、生蕃(原住民)については未だ清国に服せざる化外の民であるとして、日本の抗議には応じなかったのです。

 廃藩置県、断髪・廃刀、徴兵令、秩禄処分など、一連の改革で政府に不満をいだく士族の間では征韓論に加えて、征台論も活発になっていて、西郷、板垣らの下野後においてはなおさら、その熱は高まっていました。とくに琉球と深い関わりのある鹿児島の士族の勢いは侮りがたく、中央政府は相当な圧力を感じていたようです。そんな状況下で、大久保・大隈が連名で「台湾蕃地処分要略」を提出し、2月6日には台湾出兵が閣議決定されました。その時は佐賀の情勢が予断を許さなかった時期だったので、木戸は表立って反対することを控えていました。しかし、大久保が九州に出発したあと、我慢できなくなったのか、外征反対の意見書を閣議に提出したのです。征台については西郷従道(陸軍大輔、隆盛の弟)が積極的に動いており、木戸の意見を憂慮して、反対論の撤回を求めてきました。従道は征台に意欲的な鹿児島士族をとてもおさえ切れないと苦慮していたようです。その時期、江藤が捕縛されたことを聞いた木戸は、それにからめて征台反対の意見を改めて三条に書き送っています。

 (前略) 江藤をはじめその一統が縛についたことを、一度はよろこび、一度は嘆いております。同人も征韓論の巨魁につき、今日すでに国力をかたむけ台湾御征伐のうえは、彼らも服罪したならば、その先鋒を仰せつけられてはいかがでしょうか。
今日、(国論の)唱えるところは、昨年、江藤新平らが唱えたことであります。

 まさに皮肉のきいた正論といえましょう。どうやら木戸は、江藤が死罪になるとは想像もしていなかったようです。
 これより前、4月2日に征台に関する奏議書が作成され、署名を求められた木戸は、これを拒否していました。従道は大隈や寺島外務卿などと協議して、着々と台湾出兵の準備を進めていました。「今は内治を優先し、外征は控えるべきだ。第一、出兵に割く予算がどこにあるのか」という木戸の懸念に対して、大隈は「50万円の用意があります。それ以上になったら、西郷(従道)は腹を切ると申しております」と答えました。
「50万円で足りるという保証がどこにある? それで収まらなかったら、国民になんと申し開きをするのか。西郷の命が何百あろうと、この孝允においては用をなさない」

 実際、船舶の購入費用などを含めると、最終的な軍費の総額は50万円どころか、771万円にも達したのです。しかし、木戸の反対論にもかかわらず、従道は陸軍中将・台湾事務総督に任じられ、参軍・谷干城(陸軍少将)、赤松則良(海軍少将)とともに3千6百余の兵を率いて台湾に渡ることになりました。なお、大隈は台湾蕃地事務局長官に就任しています。
 征台の反対者は木戸ばかりでなく、長州人は山縣、伊藤を含め、武官・文官を問わず、ほとんどが反対していました。ただ、山縣は立場上、伊藤は木戸・大久保の関係を配慮して、反対の大声を上げることは差し控えていました。もはや一人でこの征台論を覆すことの不可能を悟った木戸は、自らの志とは違う方向に進んでいく政府の内に留まることはできないと決意するに至ります。
――何事も一般人民上の利害を顧み候こと第一にて、これぞ弟(私)の政府において抗論いたし候所以(ゆえん)にござ候。

 木戸が辞表を提出したのは4月18日のことでした。24日には大久保が佐賀より帰京したので、翌日に会談して、辞職の趣旨を告げるとともに内務卿としての事務を引き継ぎ、文部省のほうも部下に任せて自宅に引きこもってしまいました。木戸の辞職については、島津久光(当時は左大臣)さえも引き留めようと使者を寄越したほどですが、木戸の意志は固く、岩倉・三条両大臣もついに慰留をあきらめ、参議兼文部卿を免じるが宮内省出仕を仰せ付ける、という辞令を5月13日付で下しました。西郷が去り、今また木戸にまで去られたら、政府弱体化の加速度が増すことは明らかでしたから、なんとしても木戸を政府内に留めておきたかったのでしょう。

 岩倉が木戸の辞任を思いとどまらせるために、木戸が可愛がっていた後輩の青木周蔵を説得役に使ったという話があります。青木は赴任先のドイツから3月に帰国後、木戸邸に寄宿していました。岩倉と話し込んで真夜中過ぎに帰ってきた青木を、木戸は2階で待っていました。青木は岩倉との話を報告し、自分も辞任には反対です、と告げました。
 青木が説得している間、ひと言も発せず、沈思黙考するようだった木戸は、突然、部屋に置かれた桐の火鉢を持ち上げて放り投げました。熱灰は部屋中に飛び散り、ために燈火もその明を没し、炭火は散乱して畳を焦がしました。青木は木戸のなした行為を理解し得ないまま呆然と立ち尽くしていましたが、異様な物音に驚いた夫人と、当時、青木と同様に木戸邸に寄食していた桂太郎が階段を駆け上がってきました。
「君らの知ったことではない。下がっておれ」
 木戸は一喝して、二人を部屋から去らせました。
「この火鉢は私に向って投げられたのですか? ご不興を買ったのはなぜでしょう」
 青木の問いに、木戸は両眼に涙を浮かべて、
「なぜ君に投げることがあろう。ただ気が高ぶったのだ」
「私の言葉になにか失礼があったのなら、お赦しください」
「君が謝る必要はない。君のような人物が友人の中にいく人いるだろう」
 そう言って、木戸は青木を抱擁して泣いた――。

 さて大久保ですが、彼は台湾問題で4月29日には慌ただしく東京を発って長崎に向かいました。英米の干渉により、政府が出発の中止を決定していたにもかかわらず、台湾征討軍がその準備を進めていたからです。大久保が長崎に到着したときには、5隻の艦船がすでに出発したあとでした。長崎に集結した3千を超える将兵のなかには、薩摩で徴募した意気盛んな士族も含まれていましたから、従道はとても中止などとは告げられず、命令を無視しても出発せざるを得なかったのだと思われます。もはや矢は放たれてしまい、大久保はやむなくこの措置を追認しました。その頃、木戸は宮内省に休暇願を出し、5月27日には松子夫人とともに帰国の途につきました。


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