木戸孝允への旅 113


維新編(明治7年)


● 大久保の外交手腕 - 清国にて

 西郷(従道)は先発隊より遅れて、5月22日に台湾に到着しました。すでに琉球人の殺害に関わった牡丹社(パイワン族)以外の原住民にはなんら敵視する気持ちのないことを告げて安心させ、協力を取りつけていました。敵の生蕃との小戦闘では伍長1名が殺害されましたが、後日の激戦において日本軍は敵を潰走させ、6月3日に牡丹社を占領しました。しかし不幸なことに、現地でマラリアが流行し、帰国までに戦死者(12名)よりもたくさんの病死者(525名)を出してしまったのです。

 日本(代表:柳原公使)と清国(代表:潘霨<パンウェイ>)の交渉は6月7日からはじまり、清は台湾からの撤兵を日本に求め、日本がわは台湾の蕃地では清国の支配が及んでいないと主張して、双方譲らずに膠着状態が続きました。日本政府は7月の閣議で、台湾出兵の是認、償金の支払いを条件に撤兵すること、場合によっては開戦も辞さず、という方針を採択しました。しかし、このままの状態では埒が明かず、大久保は自ら清国に赴いて交渉することを決意し、三条、岩倉に告げたのです。大久保が日本を留守にすることに不安を隠せない両大臣に対して、彼は参議を増やして政府を補強すればよい、と主張しました。すなわち、山縣有朋(陸軍卿)、黒田清隆(開拓長官)、伊地知正治(左院議長)を新たに参議に任じたうえで、清に出張するということで、なんとか二人を了解させました。

 大久保は全権弁理大臣に任命され、フランス人の法律顧問ボアソナードを伴って8月6日に東京を発し、9月10日に北京に到着しました。その前、9月1日には天津に入ってアメリカ領事館に宿泊。この地で彼は柳原公使による交渉の最新情報を聴き、北京での自らの交渉準備をしたようです。また、アメリカ人リ・ジェンダー(漢名:李仙得、元厦門<アモイ>領事)が大久保を訪ねてきました。台湾出兵には当初からアメリカが積極的に関与しており、駐日米公使デ・ロングも「白人と同様、日本人も殺さないように、直接現地人と交渉するほかない」と副島外務卿に助言していました。台湾情報に詳しいリ・ジェンダーを紹介したのもデ・ロングでしたが、日本を利用してイギリスをけん制する狙いがあったのかもしれません。

 しかし、アメリカ本国は日清間の問題については中立を建前としていたので、のちにデ・ロングは罷免され、後任のビンガムが日本軍への協力を禁止するなどして一時混乱が生じました。リ・ジェンダーも厦門でヘンダーソン米領事によって逮捕されてしまったのですが、日清両国は交戦状態にはない、という理由で後には釈放されています。逮捕は行き過ぎだと思ったのか、アメリカ側も日清両国の動きに注目して、その対応に苦慮していたようです。イギリスも同様に、清との貿易に打撃となる日清開戦を恐れて、両国の交渉の成り行きに神経をとがらせていました。

 大久保は当時、天津に居た李鴻章とはなぜか会談しないで同地を発ち、北京に向かいました。北京での第1回目の交渉は総理衙門(そうりがもん:清朝の外交事務官庁で首席は皇族。のち外交部)にて、9月14日にはじまりました。内には開戦の準備をすすめて、外に和平の交渉を行うこと――それが、自らの使命を達するために採るべき外交の姿勢である、と大久保は強い覚悟をもって交渉に臨みました。初対面の儀ということで、酒肴を設けて雑談で済ますはずだった清の恭親王・諸大臣は、大久保がいきなり使命の主旨を説明して本題に入ったことに面喰ったようです。大久保は、
「貴国が台湾の蕃地を領有地だというなら、なぜ今まで蕃民を開化しなかったのか。また、現在国交を開き人々が相互に往来する各国は航海者を保護している。ましてや仁義・道徳をもって世界に知られる貴国が外国の漂流民を救済することは当然と思えるのに、生蕃がしばしば漂民に危害を加えているのを見ても、これを放擲して罰することもしない。ただ彼らの残虐心を養うことに、いかなる理があるのか」

 清国がわは痛いところを突かれて、あいまいな返答に終始したので、大久保は質問の文書を手渡し、明日か明後日までに返答書を受け取りたいと言い残してその場を退去しました。その後、大久保はじっと待っていたわけではなく、翌日にはロシア公使、アメリカ公使、イギリス公使を訪ねるなど積極的に動いています。翌々日にはイギリス公使ウェードが大久保を訪ねており、各国も自国の利害がからんでいることから、日清間の交渉には相当な関心を持っていたようです。清がわは最初から日本を島夷の小国とみてあなどり、的を得た返答をしないで、はぐらかすところが多く、19日になされた再度の会談においても議論がかみ合わず、なかなか交渉は進展しませんでした。

 しかし、強い口調で詰問を繰りかえす大久保の攻めの姿勢は意外だったようで、清の交渉団は「まるで査問官の尋問のようだった」という感想を残しています。清国も、できれば開戦を避けて、なんとか穏便に日本軍を台湾から撤兵させたい、というのが本音だったようです。しかし、和平の話にいたる前に、双方の主張がかみ合わなかったのです。さらに、10月5日の会談でも同様のやりとりが繰り返されました。
 大久保が、「台湾の蕃地には支配が及んでいない(化外)という返答を貴国は副島大臣にしている」と言えば、清国代表は「いや、そんなことは言っていない。我より無主と答えた覚えはない」と。「昨年答えられたことを自分は信じる」と大久保。「昨年の事を証拠としても、我より無主と答えたことはかつて無い」と清代表。要するに「台湾は我が領土であるから、はやく撤兵せよ。その後の処分は我々自身がする」ということなのですが、生蕃の地に治世が及んでいないことは明らかなので、日本がわがそこを突く。堂々巡りで埒が明かず、ついに大久保は「これでは何回会談しても結論はでない。したがって、もはや帰国するほかない」と告げました。「我々は質問にはお答えする。しかし、帰国する、というのであれば、強いてお止めはしない」と清代表。

 この日の交渉決裂について、大久保は三条宛ての手紙で報告し、交渉決裂の確認を求める照会文(井上毅が起草)を総理衙門に送付しました。帰国前に最後の段取りを踏んだのですが、イギリス公使にはこの経緯を説明する必要がありました。これより以前からイギリスがわは交渉の内容を知りたがり、何度か質問を持ち掛けてきたからです。そのたびに、仲裁の依頼があればすぐにも応ずるような態度を示しており、そのことに気づきながら、大久保は依頼する気持ちにはなれなかったようです。
 イギリス公使の質問への返答と、交渉の顛末についての報告も兼ねて、大久保は10月14日に同領事館を訪ねました。英公使ウェードは日本軍が台湾から撤兵する条件を知りたがっていました。大久保はその主意を次のように説明しています。

「今回の出兵は、もとよりわが国の義挙であること、蕃人を凝らしてこれを開化し、我が国民を含む世界の航海者の安全を保ち、将来の患いを除くことが本意なのです。台湾を占拠する意図はなく、ただ名誉を保てさえすれば撤兵する用意があります」

 大久保の論理は明快でした。国にはこの義務を果たすことを誓い、台湾では我が兵士が艱難にあって死傷者を出している。莫大な経費もかかっており、我が政府を満足させ、国民を納得させる条理がなければ撤兵は難しいと――。すなわち、清政府が日本の出兵を義挙と認め、いくばくかの償金を支払えば日本軍は台湾から退去する。そのように英公使は了解し、撤兵させる権限を大久保が有していることを確認しました。あとは、イギリスがわとしては「仲裁を頼む」のひと言が欲しかったようですが、大久保は最後までその言葉を発することはありませんでした。できれば他国の干渉を受けずに当事者同士で解決したい、という気持ちがあったのでしょう。

 一方、清政府は大久保の思いがけなく強硬な態度には辟易しており、開戦の告知はなくとも、このまま喧嘩別れのようになってはそれも避けがたいと苦慮し、その後も照会文に関しての交渉が数回もたれることになりました。しかし、償金の額とその名義について、双方の意見が相違し、和平協定の明文化についても清がわが難色を示したために、交渉はまた決裂してしまいました。ここにおいて、イギリスはついに自らすすんで仲裁に入ったのです。日本がわは200万両(300万ドル)の償金額を清国政府に提示していました。ウェードは、大久保が償金の減額については応じる様子だったので、清がわに対して同意できる金額をたずね、最高50万両という回答を得ました。日本円で約75万円という金額は実際の戦費771万円の10分の1にも満たず、柳原公使など日本がわには不満の声をあげる者もいましたが、大久保はこれを受諾しました。重要なのは名義であって、金額の大小ではない、と。

 主張するべきところは主張し、譲るべきところは譲ること。出兵が義挙であることは清国政府に認めさせたので、大久保は日本の名誉を守ったことをもって「よし」としました。10月31日、ついに日清間で合意された条約が調印され、以後益々親睦を深めることを日本がわが希望すると、清がわも同様に応じました。その後、大久保は英公使を訪ね、仲裁の尽力に感謝して漆器をおくると、公使は大いに喜んだということです。イギリスばかりでなく、アメリカもフランスも、仲裁には乗り気だったので、日清間の紛争が平和裏に解決されたことに、さぞほっとしたことでしょう。アメリカの上海総領事スワードの本国に送った報告書によると、

「勝利者はあらゆる角度から見て日本です。その強硬かつ積極的な行動が、日本に勝利をもたらしたのです。争いを通じて日本の態度はまったく非情でした」

 スワードは大久保の交渉態度の印象について、清国政府から聞いたのでしょう。また、11月3日、帰国途上の天津で大久保の訪問を受けた李鴻章はその会話の中で次のように述べています。

「副島は材あり、気量あり。さりながら閣下(大久保のこと)のお手際遙かにまされり」

 初対面にして、大久保の人物を見抜いた李鴻章の本心から出た言葉だと思われ、けっしてお世辞ではなかったでしょう。

 11月27日に横浜に着いた大久保は、伊藤など政府関係者の他に、歓喜に沸く大勢の一般市民にも出迎えられました。街中では家々に日章旗が掲げられ、様々な飾り物が据えられ、町民たちによる祝賀会も開かれました。一部の征韓・征台論者を除き、大方の国民は紛争の平和的な解決を望んでいたものと察せられます。新橋駅では宮内省からの使者や警視庁の代表に出迎えられ、騎兵・儀仗兵の一大隊が整列、棒銃の礼を受けるなど、思いがけない歓迎ムードに大久保は驚きましたが、これまでの苦労が報われたようで感激もひとしおだったことでしょう。

「嗚呼人民の祝賀、御上より御待遇の厚、誠に生涯の面目、只々感泣の外なし。終生忘却すべからざるの今日なり」(大久保日記)

 この事件によって、日本が侮りがたい国家であるという印象が海外に広まり、明治政府の威信も高まって、幕末以来、横浜に駐屯していた英仏両国の守備隊が撤収されるという、外交上の思わぬ効果ももたらされました。また台湾は清国に帰属と見られた一方で、琉球は日本に帰属することが事実上認められることにもなったのです。ただ内治においては、大久保の政治権力、その独裁制が強められる結果となり、やがて政府に復帰する木戸孝允の葛藤が他界するまで続いていくことになります。


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