維新編(明治7年) ● 木戸、帰郷 - 長州士族の救済に乗りだす 辞表提出後に、宮内省出仕の辞令を受けていたにもかかわらず、木戸は休暇願を出して、5月下旬には松子夫人を伴って帰郷の途につきました。出発前には黒田(清隆)や伊藤が、左大臣(島津久光)が人事問題に介入して紛糾している状況について報じ、木戸にその周旋を請いました。島津は大久保、大隈の罷免を要求していたのです。彼は明治6年春に上京していましたが、廃藩置県を断行した西郷、大久保を弾劾するばかりでなく、洋服廃止、陰暦復帰、洋式兵制廃止など無理な要求をくりかえして、政府の頭痛の種になっていました。しかし、封建時代の既得権を失った旧公卿・諸侯には人気があり、西郷が去った今、島津まで鹿児島に帰るような事態になっては、政府はいよいよ不安定になってしまいます。 木戸は島津に手紙を書いて、大久保のこれまでの功績、朝野の人望について語り、もし彼が罷免されれば、政府内外に動揺が生じ、不測の事態も起こりかねないことを説いて、島津に自重を求めたのです。 他にも、木戸の帰郷を知った暴徒が暗殺を企て、路の途上で待ち伏せしているとの風説がたって、いく人かの友人が「陸路を避けるべし」と忠告してきました。それでも木戸は船を使わず、東海道経由で京都に向かいました。後日、木戸が伊勢路にて難に遭う、とのうわさが東京に伝わり、驚愕した伊藤が真偽を質し警護を厳しくするよう告げた手紙を使者に託して京都に走らせる、という事態も生じました。幸い何事もなく、木戸は無事であることを伝える手紙を書いて、自分を追ってきた伊藤の使者に手渡したのです。 京都では槇村正直(京都府参事)や伊勢華(奈良県参事)、内海忠勝(大阪府参事)らと会談し、6月26日には大阪に到着、井上馨宅に泊まりました。当時、井上は大阪で先収会社を起こして実業界に身を投じていました。井上とは山口のことも含め、様々な問題について話し合いました。実は、佐賀の乱が起きてから山口県内では人心が動揺し、物情騒然とした空気が生じていたのです。諸隊叛乱で脱退した徒がまだ各所に散在しており、九州の叛徒と呼応して再び軽挙にはしりそうな危うさがありました。木戸は東京にあって、その情報を権令中野梧一などから聞き、非常に憂慮していました。帰郷を決意した背景には、そうした切迫した事情もあったのです。 7月3日には大阪を発し、神戸から船で三田尻まで行き、山口には9日に到着しました。14日に前原一誠(旧名:佐世八十郎、彦太郎)が萩から木戸を訪ねてきました。彼は松陰門下の一人で一時は参議となり、のち兵部大輔に転身しましたが、政府方針が志とは違ったようで、明治3年9月に辞職して萩に帰っていました。やや頑固で保守的なところがあって、木戸とは必ずしもしっくりいっていなかったのです。しかし、同じ尊攘派として旧知の間柄でもあり、前原の言動については彼の帰郷後も気にかけていました。というのも、脱退兵の叛乱事件があってから、生活に窮して不満を募らせる者たちが前原を首領に仰いでいたからです。 今回、木戸は前原となん度か会談して、意思の疎通をはかりました。萩の士族の前途についてよく話し合い、また前原の身の振り方にも触れ、彼に県令の職を推したのです。木戸は、中央政府に不満を抱く士族が前原をかついで事を起こす可能性を案じていました。 8月15日に萩に到着すると、旧友、知人など、多くの者が木戸を訪ねてきましたが、その中には旧脱退兵の代表20名も含まれていました。過去を悔い国家のために尽くすとのことで、その窮状には憐憫の念を禁じ得ず、とりわけ生活に困窮している旧友には、自腹で当面の生活費を与えて一時的な救済措置を施しました。こうした状況について、木戸は手紙で伊藤に知らせ、賞典禄の復旧など、彼らの救済策について政府内での尽力を請いました。 山口県には1万5千人の士族がいて、その一人一人に適宜の職を授けるのはまったくの難事でした。県は勧業局を設けて授産に着手しましたが、なかなか運営がうまくいかなかったのです。そこで、既存の共同会社の資本金50万円から25万円、これに毛利家および官員たちによる寄付金を足して、新しく士族授産局を発足させ、中野梧一らが木戸にその指導を請いました。この過程で意見がまとまらず紛糾したこともあって、木戸は再三にわたって固辞していました。しかし、みな私心を去って木戸の意見に従うことを誓ったので、木戸もようやく受諾して、共同会社と授産局との長を兼務することになりました。 士族の教育授産の件に関しては、集議所の一室を議事堂に充て、有志と会合して諸問題を協議しました。また、各地の戸長を招いて授産教育の主旨を説明し、彼らを授産掛に任じてその意見を聴きました。のちに木戸が希望して実現される地方官会議の構想に関係していたのかもしれません。その頃、東京では、台湾問題に関する北京での交渉が決裂寸前であるという報に接し、開戦を覚悟した政府は木戸に帰京を命じる勅書を伊藤に託して送りました。「~国家の安危に関し容易ならぬ事態につき、御用の筋これ有候條、急に帰京致すべき事」 木戸が勅書を受け取ったのは11月2日でしたが、彼は病気療養を理由にしばらく帰京の猶予を請う書を認(したた)め伊藤に託しました。しかし、伊藤との会見で木戸の気持ちはだいぶほぐれたようで、その後すぐに和平が成って北京条約が締結されたという電報が入り、伊藤が帰京の途上でそのことを木戸に知らせました。台湾をめぐる清国との紛争が平和裏に解決されたという吉報に、木戸がどれほど喜び安堵したかは、伊藤や井上宛の手紙で察せられます。 「大久保も大変苦労したと思うので、彼を称賛、慰労する手紙を書いてやってはどうか」 という伊藤の示唆に応えて、木戸は大久保に一書を送りました。 (前略)~老台の御尽誠にて、平和の場に着落、名義も明らかにあい立ち候趣き伝承仕り、実に国家億兆の幸福この上なき次第と、雀躍の至りに堪えず、天下のために慶賀奉り候。 大久保が北京から帰国したのは11月26日でしたが、その翌日には伊藤の私邸を訪れて、 「木戸を政府に呼び戻したいので、協力してほしい」と告げました。 12月に入ってから、政府強化の方策が幹部の間で話し合われ、改めて木戸の復職について具体的な相談がなされました。大久保の決意はかたく、「台湾問題では意見を異にしてやむなき事態に至ったが、幸い和平に帰したので、木戸君を再起させて我が素志を貫きたい。君も賛同してくれるなら、直ぐにでも自分で木戸君を迎えに、山口まで赴きたいとおもう」 伊藤は驚いて、返事を躊躇しました。大久保自ら山口に行くのはどうであろう。政府の立場も考慮するべきだし、世間体もある、と伊藤は思い、そこは自分にまかせてほしい、と大久保に告げました。 「自分が手紙を書いて、木戸に貴方の真意を伝え、京都まで出向くように促しますから」 大久保は承諾し、休暇をとって大阪まで行くことに決しました。しかし、木戸の説得には確信的な自信がなかったのか、 「もし、うまくいかなかったときは、君に助力を頼むことになると思うが」 「それは、喜んで――」 伊藤はうなずきました。 こうした経緯から、伊藤は早速木戸宛に手紙を書き、その私信を携えた使者を山口に派遣したのです。 |