木戸孝允への旅 115


維新編(明治8年)


● 国会開設への道を開いた『大阪会議』

 木戸の帰京を促す手紙は三条実美からも届いていましたが、伊藤の手紙から、大阪での直接会談を大久保が望んでいることを知って、木戸は自分の意思をはっきり伝える必要があると思いました。病気療養のこともあって、もはや京都に隠棲したいという気持ちが強く、再び東京にもどる意思はなかったのです。もし上阪が難しければ、大久保が三田尻まで出向くつもりであるとのことで、木戸は急いで出発することにしました。わざわざ三田尻まで来られては断りずらくなる、と思ったのでしょう。

 木戸が神戸に着いたのは明治8年1月5日、大久保はすでに到着して木戸を待ち構えていました。休暇を取って12月24日には横浜を発った大久保は、新年を大阪で迎えていました。1月4日に大阪から神戸に向かい、翌日、旅館「長門屋」に入った木戸をさっそく訪ねて最初の会談がなされました。この積極的な大久保の態度に、木戸はいささか面くらったようです。またしても大久保の粘り強い論調に押しまくられて、強引に東京に引き戻されるのではないか、と警戒せざるを得ませんでした。その日は清国の話や最近の世上等の雑談で終わりましたが、大阪会議の前哨戦はすでにはじまり、大久保がわには五代友厚、黒田清隆など、木戸がわには井上馨、小室信夫(土佐)、古澤滋(阿波)などの黒子役がついて、舞台裏での駆け引きも繰り広げられることになりました。

 井上はすでに木戸が山口滞在中に大阪から帰郷して、萩の士族救済の事業を手伝っていました。また、伊藤とも相談して、木戸の政界復帰について働きかけを行っていたのです。民政議院設立建白書にも関与した小室、古澤とは大阪に向かう船中で偶然逢い、薩摩をけん制する目的で意見が一致、その後、木戸の再起に板垣退助をからませることに奔走することになります。

 翌6日に木戸、大久保ともに神戸を発って大阪に向かい、木戸は井上宅に宿泊して、小室、古澤との会合についての話を井上から聴きました。一方、大久保は五代友厚宅に滞在し、一度同宅に木戸をむかえて話をしています。8日には、改めて料亭「三橋楼」で会談し、それぞれの目的、思いを語ることになりました。大久保は西郷らの辞職以降の状況や北京滞在時の心境などを語ったあと、木戸の再起を強く促しました。
「とにかく、私と一緒に東京にもどっていただきたい。あなたが参議に復帰して政府を主導してくださるなら、私はあなたのあとに従ってゆきたいと心から思っているのです」
 木戸は大久保の甘言には騙されまいと身構えながら、昨春退職に至った事情などを縷々説明し、
「いまは隠棲したいという気持ちが強く、とてもご希望には添えかねます。どうか私の思いをご理解いただきたい」
 と断っても、簡単に引き下がる相手ではありません。

 いやぜひとも復職を、それは無理ですから、という問答がくりかえされ、双方譲らぬまま4~5時間も経過してしまいました。それで、この日はいったん話を中断して、後日再会を約すことになりました。ところがそこに、黒田がひょっこりやってきて、両者の間に割ってはいると、酒を飲みながら木戸にからみはじめたのです。なかなか折り合えない薩長両巨頭の仲裁に入ったつもりでも、酒乱の気がある黒田はなにか悪態をついたらしく、ついに木戸を怒らせてしまいました。
 後日、黒田は木戸に手紙を書いて平謝りに謝りましたが、木戸の機嫌は直らず、しばらく面会も謝絶する事態となり、そのとばっちりもあったのか、再三にわたる大久保の説得にも応じようとはしませんでした。
「もはや、私のことはお見限りくださるよう、ひとえにお願い申し上げます」 と取りつくしまもありません。

 これはもう伊藤に救援を頼むほかない、と大久保は決意し、失態を演じた黒田をひとまず東京にもどし、三条、岩倉には上京の勅旨を木戸に送るように頼みました。しかし、上京の朝命を受けても、木戸はかえってこれを辞して、健康問題を理由に隠退を希望したのです。たとえ東京にもどっても、自分の思いどおりに政府が動くことはないだろう、という諦めの気持ちが木戸にはありました。
 そのうち、板垣が大阪に到着して、井上の周旋で会談することになりました。小室、古澤も同席しており、一同は民選議院についてもそれぞれの意見を交換しました。

 木戸、大久保に加えて、板垣も大阪にはいり、薩長土の巨頭がなにやら密談をかさねているという情報は、世上にも広くつたわり、大きな関心を集める事態となっていました。木戸の政府復帰については在京の同郷人も切望していたことで、容易に肯んじない木戸を憂慮し、杉孫七郎(宮内少輔)、野村素介(文部大丞)、山田顕義(陸軍少将)、青木周蔵(在独公使、当時帰国中)らが私信を認めたほかにも連署して、国家のため速やかな帰京を促す書を木戸に送ったのです。さらに、大久保からの来援要請を受けた伊藤が1月22日には大阪に到着、木戸、大久保間の周旋に奔走した末に、ついに木戸を陥落することに成功しました。

 決め手は、木戸の意向に沿った政府の改革案を大久保が呑んだことでした。木戸を政府に引き戻すためには、それが必須であると伊藤は思っていたので、自らその改革案を作成して、木戸、大久保双方に提示したのです。その案には、司法と行政を分離して、元老院と大審院を設置し(元老院を将来の上院とみなし、下院の前身として地方官会議を定例化する)、正院(大臣、参議から成る)と各省の役割を明白に分け、大臣・参議は国政の基本のみを定めて行政の実務には就かないこと、などが規定されていました。
 これは権力の分散化になるので、大久保が受け入れてくれるだろうか、という不安が伊藤にはありましたが、意外なことに大久保はあっさりと承諾したのです。木戸の隠退を阻止するためには、彼の政見をひとまず受け入れる以外に術はないと思ったようです。

 木戸はもちろん賛成でしたが、大久保の同意を得るのは難しいのではないかと思っていたので、伊藤から大久保が承諾したことを知らされると、おどろき、うれしくもあり、にわかに政治への意欲が再燃しました。将来の憲法制定、国会開設が現実味を帯びてきたからです。とかく批判のある有司専制(官僚の独裁)が打破され、民権を規定した憲法の発布によって、有力政治家による専断も抑制され、朝令暮改もなくなってゆく――木戸にはそんな希望がわいてきました。とくに憲法制定は、岩倉使節団として欧米視察から帰国して以来、木戸の悲願でもありました。

 ただし、木戸は自分の政府復帰については、板垣退助の入閣を条件としました。板垣とはすでに話し合って、改革にあたっては急進論を廃して漸進的に行うことを、木戸は板垣に承諾させていました。再び政府が分裂しないように、できるだけ軋轢を避けて改革を進めることが重要だと木戸は考えていたのです。板垣の入閣については、大久保もすぐに了承したので、最終的な会談が2月11日、料亭・加賀伊で行われることになりました。出席者は木戸、大久保に伊藤、井上、板垣で(のち鳥尾小彌太、吉富簡一も参加)、大久保と板垣とは征韓論政変以来の再会となりました。両者ともに木戸の意見に賛同し、木戸は大いに満足しました。大久保は板垣とは、政見相容れぬ仲でしたが、木戸さえ政府に戻ってくれるなら、だれを連れ子にしようと問題にする気はなかったようです。

 こうして、1月~2月半ばにわたった一連の大阪会議はようやく終了する運びとなりました。その後、大久保は2月18日に帰京、木戸はしばらく京都で過ごした後、伊藤、井上とともに2月24日に東京にもどりました。井上は木戸の説得を受けて、経営していた先収社を閉じて、木戸とともに政府に復帰することになりました。すべては木戸の思いどおりになったように見えましたが、大阪において木戸の前では気味が悪いくらい下手に出ていた大久保も、意外に聞き入れが良かった板垣も、そう一筋縄ではいかない人物であることを、木戸は政府復帰後に、思い知らされることになるのです。

★ 本115話にかかわる弊館内の記事:
小説「維新の恋」 (12)、(13) 大阪会議


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