木戸孝允への旅 116


維新編(明治8年)


● 大久保 VS. 板垣、木戸板ばさみ

 政府内における紛争の再燃は、木戸とともに板垣の入閣が合意された時点で予想されていたことで、木戸もその懸念をぬぐい切れていませんでした。だからこそ、大阪で話し合われた政治改革について齟齬がないよう、大久保、板垣と再度の会合を開き、意思の疎通を図ろうとしたのです。その会合は3月6日に三条邸で開かれましたが、板垣がわの仲介者として当てにしていた井上は欠席し、木戸が直接その役目を務めなければなりませんでした。伊藤は出席したものの、両者の仲介役には木戸がならざるを得なくなり、板垣は饒舌、大久保は寡黙、というなかで、何事にも性急な板垣の説得に努めるという立場に甘んじなければなりませんでした。

 多少のごたごたはありましたが、木戸は3月8日、板垣は3月12日に参議に復職しました。その当時、世上では「大普請、まず板垣と木戸が出来」という句が流布されたほどで、政府の動きが注目されていたことがわかります。3月17日には木戸、大久保、板垣、伊藤が政体取調委員に任ぜられ、翌日、政体取調局が設けられました。取調案については大久保は木戸任せで、あまり意見を述べなかったようです。板垣がわはいろいろ小うるさい要求をして、木戸を悩ませましたが、なんとか合意にこぎつけて、4月14日に政体改革の骨子が発表されました。すなわち、左院・右院を廃して元老院・大審院を設け、地方官会議を開催、漸次立憲政体を樹立するという、(司法、立法、行政の)三権分立を目的とした改革で、概ね、木戸の意見が反映されていました。しかし、元老院の議員人選については最初から紛糾し、一方の推す人物を他方が否定し、その逆もあり、さらに岩倉、島津もその人選に口をはさんできたので、収拾がつかなくなっていました。とくに、板垣は強引に自分の意見を押し通そうとするので、木戸もその調整には随分困却していたのです。

 すったもんだの末、4月23日、正院の会議でようやく第一回元老院議官が決定されました。

 後藤象二郎(前参議、土佐。28日、副議長に選出)
 勝安房(海舟、参議兼海軍卿)
 由利公正(前東京府知事)
 福岡孝弟(前左院議官、土佐)
 山口尚房(外務少輔、肥前)
 吉井友實(前宮内少輔、薩摩)
 陸奥宗光(前租税頭)
 鳥尾小彌太(陸軍少将、長州)
 三浦梧楼(陸軍少将、長州)
 津田 出(陸軍少将)
 河野敏鎌(権大判事、土佐)
 松岡時敏(前左院議官)
 加藤弘之(三等侍講)
 
 全13名でしたが、勝はすぐに、福岡もまもなく辞職しており、木戸が推した井上は、尾去沢銅山事件の被告だったこともあって、議員の選出からは漏れることになりました。同日に元老院章程も発表され、元老院は新法の制定、旧法の改正などを行い、議長、副議長、議官の地位は一等官とし、年齢は満30歳以上、資格は勅任官、国家に功労ある者、政治法律の学識ある者に限る、など12条が規定されていました。この章程については、のちに「議案は天皇陛下の准許(じゅんきょ)を必要とするが、元老院が否決するものは勅諚であっても法律化できない」という主旨の2箇条を追加する改正案が提出され、またも紛糾する事態となりました。

「この改正案は天皇陛下の大権を制限するもので、わが国体と相容れない」と反対する者と、「これだけの権能がなければ元老院を創設した意味がない」と支持する者(主に板垣派)が対立し、両者一歩も譲る気配がありません。そこで、参議一同の会議が開かれましたが、本件の明文化は時期尚早、とする大久保、伊藤の意見と、明文化しなければ元老院創設の趣意に反する、とする板垣の意見がまっこうから対立し、ここでも妥協の余地のないまま散会となってしまいました。会議に病欠した木戸は、のちに三条からその詳細を知らされて当惑し、かつ憤激を覚えていました。

 板垣派は立法権を奪取して政府の無力化を図ったようで、急進論を控える、とした「大阪会議」での約束を違えるものとして、木戸は裏切られたように感じました。しかし、板垣を政府に引き込んだ責任があったので、自分がなんとかしなければならないと思い、板垣と話し合う機会を持ちましたが、相手はなかなか折れようとはしません。そこで、井上に協力を頼んで、板垣を後押ししていた小室、陸奥らを懐柔し、彼らをして板垣を説得させると、板垣もようやくその主張を撤回することになりました。結局、章程の改正案は憲法の制定を待って明文化する、という天皇の勅命(6月22日付)をもって解決をみるに至りました。

 7月2日には有栖川宮熾仁親王、柳原前光、長谷信篤、佐々木高行など、穏健派とみられる10名が新たに元老院議官に任命されました。その間に、地方官会議も浅草本願寺で6月20日に開催されており、議長には木戸が任命されていました。そのため、彼は議院の規則や議案を定め、全国の知事・県令を招集、議員を5組に分けて各組の幹事・幹事長を選出するなどの準備に追われていました。木戸は、漸次民選議院を構成することが自分の持論だったので、この命を辞退できなかった、と日記に記していますが、この会議もすんなり行われていたわけではありませんでした。

 開会早々、議院規則の改正を要求する者があり、木戸を困惑させたのです。法案を協議する前に、各々が規則の事を言い始めたら収拾がつかなくなってしまいます。木戸がなんとか説得して、この要求は取り下げさせましたが、会議に慣れない者も多く、途中で倦んでだらける者、無礼な態度をとる者、一方的な自己主張で議事進行を乱す者など、様々な好ましくない事態が生じて、7月17日に閉会するまで議長の苦労も絶えませんでした。
 議題は第一に地方警察、第二に地方の土木・堤防・道路・橋梁など、第三に地方民会に関する法案についてで、世上の注目を集めたのは最後の「地方議会は公選議会とするか、官選議会とするか」の問題でした。広島、高知、岡山、千葉、熊谷など13県の傍聴人は、「一条、二条の問題に日数をかけ過ぎて、一般人民の関心を集める三条の問題を協議する時間が足らない。将来の憲法制定、人民の権利にも関わることなので、十分に時間をとって、はやく討論し、決議してほしい」という趣意の意見書を、議場では受理されなかったので、元老院に提出しました。

 政府もこれを無視するわけにはいかず、順位を優先させ、さらに3日間延長して協議することになりました。結論は多数決により、任命制の区長による府県会と戸長による区会(町村会)とを定めた区戸長会議を開くことに決しました。しかし、決定までには急進的な民権論者が各県の傍聴人を集めて、しきりに扇動しているとの風聞もあり、木戸はこれを憂慮しながら、日記で「未だ二府二十五県は議会も開いておらず、自らの管轄県では区戸長会も開いていない者が、しきりに公選民会を主張している」という現状に疑問を呈しています。この問題では、板垣も急進論を主張して木戸を悩ませました。
「まだ線路もないところに、急行列車を走らせてどうするのか」
 という木戸の思いは、政府内外の民権派に押されていた板垣には、もはや通じなかったようです。

 木戸は板垣派に対してばかりでなく、大久保、伊藤に対しても同様の不満を抱いていました。というのも、彼が対応に苦慮していた諸問題に関してあまり協力的でなく、傍観を決め込むことさえあったからです。そのうえ、人事や財政問題などで、大久保が木戸の意見を聞き入れることはありませんでした。立法と行政の分離に関しては、大阪会議での約束事でもあり、板垣がその実行を迫り、木戸も議題にあげて決議するつもりでした。しかし、大久保は最初から内務省を手放す気はなく、伊藤も工部省を去る覚悟はできていなかったのです。木戸が事を穏便に進めようとしても、板垣はただちに実行するよう三条に迫り、大久保のほうは、板垣に対してなんら配慮を見せる様子もなかったので、木戸はもはや両者が歩み寄る余地があろうとは思えなくなってきました。

 板垣は、内閣諸省の分離に異議ある者はすべて斥け、大久保が専任参議となったのちは、河野敏鎌を内務卿に、林有造を参議に、島本仲道を司法大輔に、中島信行、小室信夫を元老院議官に推挙するつもりだったようです。これはもはや民権派の政府乗っ取りにひとしく、大阪において、板垣が木戸の「漸進改革論」に同意したのは本心ではなかったこと、また、大久保が問題の「分離論」に異議を唱えなかったのは実行を確約するものではなかったことを、木戸は思い知らされたのです。板垣は自分の意見が通らないとみるや、今度は大隈、大木を罷免せよ、と新たな要求を突き付けてきました。しかし、大久保が人事問題で譲るわけがなく、木戸が提案した板垣・大久保の直接会談も実現には至らず、両者を周旋しようとした木戸の努力はすべて徒労に終わりました。

 木戸が板垣、大久保に辞意を伝えたのは9月5日のことでした。「大阪での約束が果たされず、上は天子に対し、下は人民に対して深くこれを恥じています。また、先年来の脳病も全快していないので、この際、政府にあっても志しを貫徹できずに、いたずらに紛議を生ずるよりは、むしろ職を辞して静養につとめたい」
 大久保は意外の態で、しきりに苦情を述べはじめましたが、もはや木戸の決意を翻すことはできませんでした。木戸がここまで思いつめていたとは、大久保も予想していなかったようで、すぐに三条邸を訪れて、木戸の慰留について相談しています。7日には、伊藤とも会って、木戸の辞意撤回について協力を求めました。しかし、伊藤や三条、さらに大久保の再度にわたる説得にも、もはや木戸の気が変わることはありませんでした。

「大阪の事は一生の大失策で、軽率だった」 とのちに木戸は伊藤への手紙で、その気持ちを打ち明けています。
「水と油が交わることなどあり得ず、将来のためにもよろしくなかった。政府は以前の状態に戻るのが一番良く、混合論(大久保・板垣の並立)は下策中の下策だった」

 ここで、木戸が再び辞職して下野すれば、政府はいっそう不安定になってしまいます。三条が伊藤宛の手紙で
「板垣、木戸の際は破れても致し方ないが、木戸、大久保の間が破れては、その波及するところはあまりにも大きい」
 と心配していたことが、いま現実になろうとしていました。ところが、この局面を一変する驚くべき情報がもたらされたのです。


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