維新編(明治8年) ● 板垣・島津、倒閣運動で連携 板垣と島津が結託して倒閣を図っている、という情報が伊藤からもたらされ、木戸は驚愕しました。急進派の旗頭が頑固な守旧派の大将と結ぶなどとは、予想もしなかったからです。以前から島津は、洋服、太陽暦、洋式兵制などの採用に異議を唱え、旧制に戻すべしとの意見書を提出していましたが、何ひとつ受け入れられず、また大久保、大隈の罷免運動もうまくゆかず、大きな不満を抱いていました。要するに、左大臣とは名ばかりで、なんの実権もない状態に憤っていたのです。政府批判を強める島津を旧公卿・諸侯は支持しており、中山忠能、松平慶永など14人が連名で「左府の建言を容れるべし」と三条、岩倉に訴えるほどでした。 板垣はといえば、政府に復帰はしたものの、元老院も、地方官会議も、自分の目ざす形態とはほど遠く、人事についても自らの意見はまったく通らない。内閣諸省の分離問題も容易に解決されない状態では、在野の民権派に対して面目も立たず、木戸を裏切っても急進的にならざるを得なかった、という事情があったのでしょう。たとえ目ざす方向は違っても、政府への不満を募らせる一点においては、島津と板垣は一致しており、ここに両者が結びつく理由が生じたわけです。敵の敵は味方、ということで、倒閣の陰謀が図られることになりました。 すなわち、三条太政大臣を斥け、島津左大臣をその後釜に据えるという目論見で、守旧・急進(島津・板垣)両派が一致して動き出したのです。時を同じくして、朝鮮では江華島事件が起きていました。9月20日、朝鮮沿岸を航行していた日本船・雲揚号が江華島の砲台から発砲されて、これに応戦。砲台を破壊し、乗組員が上陸して敵兵と交戦の末に朝鮮兵若干名を捕虜として連れ帰りました。この事件は日本政府を驚かせましたが、成り行き上、同地の草梁公館や居留民の保護を目的に軍艦を釜山に派遣することになったのです。 こうした状況で、またもや征韓論の再燃をおそれた木戸は、まず朝鮮と交渉するために、自分が全権大使となることを希望しました。 倒閣の動きに対しては、やむなく辞意の撤回を伊藤に伝え、これまでどおり大久保と一致協力することになりました。しかし、撤回は一時的なもので、政府の危機が去ったあとにお暇を乞いたい、一時の艱難に当たっては、たとえ不満があっても全力で協力するが、持病に苦しんでいるので、無理に引き留められては拷問にも等しく、このことご考慮の上、大久保にもきっとお伝えくださるようお願い申し上げる、という趣旨の手紙を木戸は伊藤に送っています。しかし、それでも不安に思ったのか、後日、直接大久保と会って、その心情を明かして相手が了承したことを確認しています。この時は大久保もあえて反対せず、大人の対応を示したようですが、内心では木戸の隠退など、認めるつもりはなかったのです。 内閣諸省の分離に関しては、江華島事件の勃発を理由にその実行を延期する意向を、三条が板垣がわに伝えました。しかし、板垣はこの事件を現状維持の理由ではなく、政府改革の理由ととらえ、「重大問題を決定せんと望むならば、内閣と諸卿の職責を分けるべきである。これは大阪会議における綱領であり、廟議でも決定されたこと。今日、対外に事あった際だからこそ、実行すべき好機である」と三条に迫りました。かくて、この問題に関する閣議が10月8日に開かれ、各々が意見を述べることになりました。すでに分離論者だった木戸は現状での実行を不可として、分離中止派の三条、岩倉、大久保、伊藤についたので、板垣の即時実行に賛成する者は島津のみとなりました。 結局、天皇の親諭は「内閣分離の事は、朝鮮事変処分の後をまって、その可否を判断する」ということになったのです。しかし、板垣はこのまま引き下がらず、三条実美を非難する上奏文を提出して、分離の勅裁が下りなければ辞任すると告げました。この板垣の上奏が却下されると、今度は島津が三条の弾劾状を提出し、さらに岩倉の支持を期待して、海江田信義を岩倉邸に派遣して建白書の内容を説明させたのです。岩倉にとって、木戸の政府復帰は喜ばしいことでしたが、征韓論政変の際に苦労して追い出した急進派の板垣や、民権派や征韓派やらが木戸に連なって戻ってきたのですから、内心おもしろくなく、病と称して参朝を控えたり、一時は保守的な島津に同調する態度を示すこともありました。島津はそれで、岩倉が自分の味方になってくれると思い込んだようです。 島津は、「板垣の建言はもっともであり、三条は太政大臣の器ではない」として、その解任を求めていました。このことを伝え聞いた木戸と大久保は危機感を共有したようで、二人で岩倉を訪ねてなにやら密談していますが、大久保はまだ心配だったらしく、翌日に改めて一人で岩倉邸を訪れて話し合っています。それは「麝香の間」詰めの華族の大方が久光を支持し、有栖川熾仁親王も島津の意見に賛同していたので、岩倉もなかなか動きづらい状況だったからだと思われます。後日、有栖川、中山忠能、伊達宗城らが岩倉を訪ねてきましたが、岩倉は会わず、自らの意見を明かすことはありませんでした。しかし、彼はすでに大久保には「一刀両断の御処分のほかこれなく」と久光については、手紙でその覚悟を打ち明けていました。 岩倉は島津寄りの華族に意見をたずねられても、ただ「今回の事、その可否の裁断は一に叡慮(えいりょ)に在り。臣らがあえて口を容るべき所に非ず」と用心ぶかく発言を控えており、その一方で徳大寺侍従長には、有栖川宮をしばらく天皇に近づけないように依頼しており、その準備周到ぶりがうかがわれます。岩倉は天皇の召命によって21日に参内、この問題について問われたので、「この事、ひとえに聖断にあり、ただ陛下の裁するところ」と答えると、主上は「実美、戊辰以来の功労あり。朕決して忘るる能わず。またその罪の所在を見ず。久光の封事、朕まさに之を返附すべし」と。島津の予想以上に、三条に対する天皇の信頼は厚かったのです。 10月22日、島津は参内してその意見の不採用を聴くと、ただちに辞表を提出。同日、板垣も辞表を出し、政府乗っ取り計画はここに挫折しました。両人の辞職はあっさり認められたのですが、これはやむを得ないというよりは、当然の結果だったのでしょう。大久保にとっては、木戸さえ政府に留まってくれれば、板垣は眼中になく、政府の方針にことごとく異を唱える島津はもはや邪魔な存在でしかなかったのです。いまだに封建制度に未練を残す旧主を上に戴くやっかいさは身に染みて感じていたに違いなく、大きな荷物を下ろしたような思いが無きにしもあらずだった、と推察されます。 こうした政府の騒動の中、木戸の立場は微妙でした。一時は独裁的な大久保に抗って下野したにもかかわらず、板垣と政府改革の希望を抱いて復帰すれば、漸進論を守れなかった板垣とは離反し、またしても事実上の大久保・岩倉政権を支える役割を務める立場になっている。そうした木戸を民権派は裏切者とののしり、政府がわからは危険な板垣一派を引き入れた者として非難されることになったのです。木戸には世間一般の風も冷たく、これを心配した福沢諭吉が木戸を訪ねてきて、 「参議をお辞めになったほうがよろしい。このままではあなたに恨みが集中してしまいます」 と忠告したほどでした。木戸は福沢とは以前から親交がありました。 「ご親切には感謝いたしますが、私は今、辞めるわけにはいかないのです」 声を詰まらせて、彼はそう答えるほかありませんでした。 島津・板垣の辞職以来、世上は騒然として各所に不平の徒が集い、内乱の気配があったことに加えて、江華島事件によって国内に再び征韓論が沸き起こっており、とても辞任できる状況ではなかったのです。木戸はすでに朝鮮使節に任命されており、この問題をなんとか平和裏に解決したいと思っていました。木戸の朝鮮派遣については井上はじめ、反対する者が多かったのですが、却下すれば辞職しかねないほどの真剣さだったので、大久保らもやむなくこれを認めることになりました。しかし、日本を出発する前に持病が再発し、左足が麻痺して歩行が困難となったため、木戸は自宅での静養を余儀なくされ、朝鮮使節には黒田清隆が正使に、井上馨が副使に任命される結果となりました。 島津はすでに朝鮮への出兵を建白書(三条の弾劾状)で訴えており、辞任後も征韓論を唱えて士族を扇動している様子が見られました。もしも朝鮮問題が悪いほうにこじれたらどうなるのか? 鹿児島士族の蜂起を木戸は警戒し、この問題が片付くまでは政府を去るわけにはいかないと、自らの病苦にも世間の誹謗中傷にも耐えていく、悲壮な覚悟を固めていました。 ★ 本117話にかかわる弊館内の記事: 小説・維新の恋(14)失意の時 |