木戸孝允への旅 118


維新編(明治9年)


● 天皇の奥羽巡幸に供奉

 黒田、井上を正・副使とする朝鮮使節団は明治9年1月に「日進」、「孟春」など軍艦3隻と輸送船3隻をひきいて朝鮮に向かいました。交渉は2月から始まり、予備交渉から4回にわたる本交渉を経て、2月27日にようやく日朝修好条規が調印されました。その1款には「朝鮮は自主の邦(くに)にして、日本国と平等の権を保有せり~」と規定されています。このころには木戸も外出できるまでに体調がよくなっていたので、3月2日に伊藤や三条邸を訪れて、朝鮮問題が決着したからには内閣諸卿の分離について実行するべきときである、との意見を伝えました。その実行をみて、木戸は辞表を提出するつもりでした。ところで、この時期に突然、板垣退助が木戸を訪ねています。後藤象二郎が商売上における多額の負債で苦境に陥っているとかで、木戸に相談を持ち掛けてきたのです。政府を離脱しても、木戸とは政治思想において一脈通じるものがあったようで、大久保のように敵視する対象とは視ていなかったようです。

 余談ですが同月3日の夜、木戸邸の門前に幼児が捨てられているのを、木戸が発見して保護しています。木戸日記には、「今夜八時、小児を余の門前に捨てるものあり。拾いとりて牛乳を吸わせ、下婢に保護を申し付けり。門外にて暫く涕児の声を聞くものあれど、いづれも向長屋の小児と思い心付かず、図らずも寒気にさらし憐れむべきことなり。屋中へ抱き入れると、にこり笑いし有様覚えず潜然たり」(原文は旧字、旧仮名遣い)とあります。木戸には実子(男児)がいなかったので、妹の息子など何人かを養子にしていますが、この捨て子も他者に預けて養育させながら、籍は木戸家に入れていたようです。木戸の実妹(来原良蔵妻)ハルは明治8年11月18日に病没しており、木戸自身は病で葬儀に出席できなかったことを嘆き、その悲しみの深さは日記でうかがい知ることができます。木戸の家族については「木戸孝允への旅」本編が終了したあとに、養子の忠太郎のことも含めて、補記としてまとめて書く予定です。

 木戸が申し出ていた参議辞任の請願については、3月28日に許可されましたが、新たに内閣顧問の就任を申し渡されました。4月14日には天皇が王子製紙場を訪ね、飛鳥山で花見を楽しんだのちに木戸の染井別邸で休息され、維新当初から国事に尽くし平安をもたらした木戸ら輔弼の功に言及し、「朕ここに親臨し、ともに歓をつくすをよろこぶ」というお言葉を述べられました。士族の家への臨幸は木戸が初めてとのことで、彼の感激もひとしおだったに違いありません。こうしたことは、木戸を政府に繋ぎ留めておくために、大久保、岩倉らが計画したことだったのかもしれません。木戸が求めていた内閣諸卿の分離については、容易に実行しようとしなかったのです。

 6月2日、木戸は岩倉らとともに、明治5年以来、諸々の事変によって延期されていた天皇の奥羽巡幸に供奉し、東京を発ちました。大久保はその前に巡幸先をまわって、受入れ準備の指揮をとっています。当日は千住駅まで皇后が見送り、草加駅で宿泊。次の蒲生村では人々が菅笠をかぶって田植えをする様子に天皇は見入って、しばし行列を待たせるほどでした。6日には宇都宮から日光町へ向かい、満願寺に到着。土地の住民らが三仏堂の解体について、中止を乞うために木戸を訪ねてきました。維新以降、政府の神仏分離政策によって、山内第一の大堂も破壊される予定だったのです。木戸はこうした政策には批判的で、「神仏混淆は出来ぬとかなんとか、内務卿も県庁同様の指令をしているが、こうした歴史的事物こそ後代に残すべきである。これを破壊すれば日光の一景色を失し、土地の賑わいを損ねることにもなろう」と槇村正直(京都府権知事)宛の手紙で述べています。幸い、木戸の尽力によって、三仏堂はそのまま満願寺に移され、保存されることになりました。

 一行は東照宮、華厳の滝、中禅寺湖畔などをめぐってその景観を愛でながら、さらに北へと奥州の旅をつづけました。13日、白河の入口あたりで、木戸は薩長戦死の墓を発見して感慨にふけり、天皇も戦時の事について木戸にお尋ねになりました。また、当時、飢餓に困窮した村民の話などを聴かれ、天皇が庶民と身近に触れ合う機会ともなったのです。笹川村では小学校に立ち寄り、生徒達に迎えられて校内を見学。桑野村では開墾の苦労話なども耳にして、天皇が地方社会の現状を知ることにもなりました。つい十数年前までは、京都御所から外に出ることもなかった歴代天皇の時代に比べれば、まさに隔世の感がありますが、とくに木戸は皇族の教育など宮中改革について、岩倉などへ熱心に説いていました。

 白河駅では、木戸は戊辰戦争の犠牲となった世良修蔵の墓を弔し、石灯籠一基を建立しました。7月3日には盛岡、7月14日には青森駅、そして16日には明治丸に乗船して北海道へわたりました。天皇は函館で支庁、病院、学校などを巡覧、五稜郭にも立ち寄り、当時の戦況について下問されました。またアイヌ人も50余名が天皇に拝謁し、酒を賜った返礼に舞踏を演じました。市街には家々の軒先に灯火が掲げられ、海岸沿いの街路には灯籠が、停泊中の艦船にも灯火が連なりました。奥州から函館まで、天皇の行列は行く先々で歓迎の群衆に迎えられ、自分の気持ちを歌に託す者たちも数多くいたのです。一般人にとって、天皇がこれほど身近に感じられたことはかつてなかったことでしょう。
 18日、一行は函館港から帰路につきました。航海中の海は荒れましたが20日、無事横浜にもどることができました。

 この奥羽巡幸のすこし前に、木戸は洋行を望んで許可を得るべく井上に助力を請うていました。井上は朝鮮から帰国後に欧州に赴く予定だったので、木戸も共に外遊できる好機と考えたのでしょう。彼は大久保などが反対することを懸念して、そこらへんの対応についても井上に頼んだのです。井上に加えて、伊藤も木戸のために尽力したので、三条などが賛同して、木戸の洋行が内定されるところまで話しがすすみました。この事情については、井上が6月12日付の電信で東北にいる木戸に伝えています。その後、木戸は岩倉の同意を求めて、洋行の希望あることを打ち明けましたが、岩倉はまだ三条から知らせがないと言って、その可否を明言しませんでした。大久保が木戸の洋行を認めるはずもなく、岩倉は木戸が関心を示している皇室改革の任にあたらせることを考えたようです。

 8月3日、木戸は宮中に召され、宮内省出仕を命じられました。木戸もこれまでに君徳補導のことや皇室費の制定、皇族の品位保持、華士族の待遇・生計などについて意見を述べてきたので、固辞することもできず、やむを得ず拝命することになりました。これに伴い、木戸の洋行話は立ち消えとなり、切望していた京都への隠棲も実現することなく、生涯を明治政府に捧げることになります。
 
  8月18日、木戸は医師の勧めにしたがい、休養のために勅許を得て、松子夫人とともに箱根へ発ちました。宿泊先は木賀の亀屋で、以前にも箱根に遊んだ際に利用した旅館です。同月末には皇后(一条忠香三女・美子 昭憲皇太后)が避暑のため、箱根宮の下に着することを知り、木戸はご機嫌伺に訪れて拝謁しました。9月4日には皇后が木戸の旅館を訪れたので、和洋の菓子数種を献上すると、皇后も木戸夫妻に菓子を賜りました。他にも皇后との交流はかなりあったようです。9月13日、東京にもどってからは、皇室費の制定、華族銀行設立などの問題に取り組みました。

 木戸が宮内省の仕事に専念していたころ、西国では複数の箇所で不穏な空気が熱を生じて、発火寸前の状態になっていました。10月24日、かねてから政府の洋化政策に不満を抱いていた熊本の敬神党(神風連・首領は太田黒伴雄)が乱を起こし、県令・安岡良亮を斬殺、さらに熊本鎮台・種田政明を就寝中に襲って殺害したのです。これに呼応するかのように、26日には秋月の征韓派士族・宮崎車之助らが蜂起、翌27日には萩の前原一誠が挙兵しました。世上は騒然とし、東京政府はまたしても危機のただ中に置かれることになりました。これら一連の乱を速やかに鎮定できなければ、動乱は全国に広がる恐れがあったのです。


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