木戸孝允への旅 119


維新編(明治9年)


● 神風連・秋月・萩の乱 - 前原一誠刑死

 神風連・秋月の乱
 神風連の指導者は太田黒伴雄(おおたぐろともお 旧名・大野鐵兵衛)と加屋霽堅(かやはるかた)で、二人とも肥後勤王党の師・林櫻園(おうえん 明治3年没)の弟子でした。専ら神事を第一とし、皇室を敬い、夷狄を掃うという敬神・尊王・攘夷の思想を忠実に受け継ぎ、政府の洋化政策には大反対の立場をとっていました。明治8年5月にロシアとの間で千島・樺太交換条約が締結された際には、憤激して挙兵しようとしましたが、神慮が不可と出たので思いとどまりました。しかし、明治9年3月に布告された廃刀令は彼らの士族としての誇りを著しく傷つけ、さらに熊本の洋学所がキリスト教の布教所と化していたことも、我慢の限界を超える因となったようです。義挙について神宮で神意を伺うと、今度は可と出たので彼らは勇躍して他県に同志を求めて活動することになりました。

 折しも、政府に対して同様の不満を抱いていた秋月の宮崎車之助が熊本に神風連を訪ねてきました。彼らは意気投合してたちまち盟約が成立、宮崎の勧めで、萩の前原一誠も仲間に誘うことに決し、宮崎以下、同志3人が萩を訪問して前原に面会しました。4人の来訪を前原はよろこび、先に貴兄らが起てば必ずあとに続こうと約して、ここに熊本・秋月・萩の同盟が成立することになりました。さらに、同志の幾人かが鹿児島に赴いて桐野利秋と面会し、ともに起とうと誘ったのですが、色よい返事が得られなかったようで、西郷と接触することはありませんでした。

 熊本で神風連(敬神党)の一味170余人が蜂起したのは10月24日の深夜でした。彼らは西洋式の火器を嫌って銃を持たず、刀と槍だけで戦ったのです。緒戦では、不意を突かれた安岡県令と種田鎮台司令長官が重傷を負って、後日亡くなりますが、やがて鎮圧がわの銃隊の威力が発揮されはじめると、叛徒は劣勢に陥ります。太田黒(43)、加屋(41)の主・副将が銃弾に斃れてからは、もはや挽回はならず、統率者を失った一団の最後は解散を選択せざるを得ませんでした。戦死28名、自決86名、捕縛46名のうち刑死3名、逃亡者は4名にとどまりました。

 このように熊本の乱は1日で鎮圧されましたが、26日には秋月の士族が神風連に続く動きを見せました。福岡黒田家の支藩である秋月藩にも勤王の志士が集う組織があって、維新以降は朝鮮やロシアに対する政府の外交に不満を募らせていました。なかには軽挙を戒める者もいたのですが、もはや血気にはやる壮士を抑えることはできませんでした。彼らは豊津の有志と共に小倉から下関にわたり、萩の前原一派と合流しようと、一時堡塁を築いていた男女石を出発。40キロをこえる山道を踏破して豊津にたどり着きました。ところが、豊津の士族は小倉の鎮台と内通し、鎮台兵とともに彼らを襲撃したので、秋月の士は抗しきれずに四散してしまいました。宮崎車之助、磯淳、土岐清ら7人の幹部は自刃、今村百八郎(車之助の弟)は決死覚悟の20数人の同志とともに秋月に向かい、区長ら数名を斬ったものの衆寡敵せず、ついには捕縛され斬首の刑に処せられました。

 萩の乱
 乱はいよいよ萩を舞台に繰り広げられることになります。熊本の神風連につづいて秋月も蜂起したとの報を受けると、前原一誠は26日、山田穎太郎、佐世一清(両者とも前原の弟)、奥平謙輔、横山俊彦など主な同志を東光寺に集め、「国体を挽回するはこの時にあり」と告げて蹶起の趣意書を作りました。翌日には藩校明倫館に「殉国軍」の看板を掲げて仲間を募りましたが、集まったのは200名に届きませんでした。頼みとしていた旧干城隊は、福原、佃などの幹部がすでに木戸と通じており、大方の者は政府の朝鮮出兵の決定を待って行動することになっていたのです。要するに、政府の判断に従うということで、木戸は明治7年に帰郷して士族の救済事業に尽力した際に、彼らと意思の疎通をはかって信頼関係を築いていたのだと思われます。

 明治2年の諸隊叛乱につづく、郷里での乱の再発をおそれる木戸は、士族の不満分子に担がれそうな前原にも萩を出て官職に就くことを勧めていました。しかし、木戸とはそりが合わず、政府の政策にも批判的だった前原は萩から動こうとせず、明治8年の地方官会議開催中にようやく上京してきました。一度木戸を訪ねてきましたが、それで義理は果たしたと思ったのか、あとは当時、政府がわと対立していた板垣らの民権派やら、島津一派やら、旧会津藩士・永岡やらと会談し、なにやら不穏な動きを見せていました。その後、木戸にはなんの連絡もなく、突然東京をはなれ、帰郷してしまいました。こうしたことから、前原には最初から官職に就く意思はなく、敵情視察という思惑で上京してきたのかもしれません。

 その後、前原のもとへ他県からの来訪者が頻々と出入りしているとの情報を受けた木戸は憂慮に堪えず、地元の山口県ばかりか、鹿児島の動静にも気をもんでいました。鹿児島の西郷の存在は、他県の征韓派や不平士族らが最重視しており、とうぜん前原も西郷の思考や動静は最も知りたいことだったに違いありません。政府がわの用心もそこにあって、だからこそ探偵を派遣して前原を試してみたのでしょう。すなわち、明治9年1月のこと、鹿児島の指宿貞父、小林寛なる者が西郷・桐野の使いと称して前原に面会を求めてきました。二人は西郷からの密書を持参しており、これを開いて曰く、
「西郷、桐野は名義を重んじてうかつに動けないが、君民のためなら身を投じて仁を成す覚悟があるので、あなたに真の志あるなら小銃・大砲などの武器を贈与する用意がある」
 他説には「岩倉、大久保は国家を害する奸賊だから、之を除かなければ国家は危うい。某日某月に鹿児島を発して大阪を突き、東海道を攻め上るので、あなたも兵を率いてこれに加わりなさい」

 これを読んだ前原は興奮のあまり、家伝の刀を抜き放って空を切り奇声を挙げると、すぐに快諾の書を認めて二人に渡したといいます。しかし、この密使は政府・警保局が放った間諜だったのです。のちに前原は使者を鹿児島に派遣するのですが、そのときに指宿、小林が西郷の使者でも、知人でもないことを知らされ、自分が騙されたことを悟りました。こうした経緯があったので、一旦は自分と近しい政府側の人物に釈明を試みても、内心は穏やかならず、もはや後戻りできない境地に陥っていたのかもしれません。

 いずれにしても前原は起ちました。最初は山口に進撃するつもりでしたが、兵の少なさを考慮して断念し、山陰道を通って東京に向かうことにしました。彼は現政府の悪政を一掃するよう、闕下(天子の前。宮城の門下)に訴えようとしたのです。10月29日、前原は萩を発って黒川村に至り、30日には須佐に着しました。ここで同志を募り、百数十人の兵を得たので、これを二分して海路と陸路から浜田に向かおうとしたところ、海が荒れていたため須佐に引き返しました。その間、萩では前原派の残党が捕縛されているという報に接して、萩にもどることを決意。ここにおいて、前原率いる叛乱軍は初めて政府軍と交戦におよびました。不意を突かれた鎮台兵の前衛は敵の激烈な攻撃に苦戦を強いられ、後退を余儀なくされます。緒戦は前原軍が勝利しましたが、玉木正誼(吉田松陰の叔父・玉木文之進の養子)が戦死し、山田穎太郎は負傷してしまいました。

 そのうち三浦梧楼(陸軍少将・広島鎮台司令長官)が山口に到着。11月1日から6日にかけて、政府軍と叛乱軍との間で戦闘が繰り広げられましたが、その間、東京にいた木戸は気が気ではなく、自ら萩に出張する許可を願い出ました。木戸は日ごろ、鹿児島についての不満を大久保に漏らしていたので、自分の郷里での叛乱は面目もなく、なんとしても自ら指揮を執って鎮静したいと思ったのでしょう。しかし、大久保は前原挙兵の規模が思ったほど大きくないという情報を得ていました。鎮圧は時間の問題であり、今は政府をしっかり固めることのほうが大事であると冷静に判断していたのです。

 大久保の予想どおり、一時は500人超を擁した叛乱軍は、戦闘が進むにつれて多数の死傷者を出し、その勢いが弱まっていきました。5日には百余名が捕虜となり、前原ら幹部はすでに11月1日には逃走していました。6日、叛乱軍は壊滅し、残党が火を放って須佐方面に逃れ去りました。前原ら8人は漁船を雇って江崎港を発しましたが、風雨が激しく何度か転覆しそうになりながら、辛うじて出雲の宇龍港に入りました。その後、飲料水を求めて舟子が上陸しましたが、いつまでたっても帰ってきません。それで横山(俊彦)が彼の従僕とともに舟を出て水を求めていたところ、巡査に見つかり捕まってしまいました。巡査がわはすでに停泊中の漁船を怪しんで、捕縛の手はずを整えていたのです。

 舟中の者が前原であるという知らせを受けた島根県令佐藤信寛は長州出身者でした。彼は同郷の清水清太郎を呼び、
「前原は公をもってせば朝廷の功臣、私をもってせば同県の知友、警吏のこれを虐遇するあらば、すなわち公私の恩義に背かん~」
 と告げて、前原を丁寧に護送するよう頼みました。その後、清水は佐藤の手紙をもって前原のもとに行き、自分の書を添えてわたしました。佐藤の手紙には、自分に身を任せてくれるなら穏便に東京に護送する旨が書かれていました。前原は同郷人との遭遇をよろこび、上陸して佐藤の宿所まで行くと、そこで酒肴を饗せられ、逮捕前のひと時を心穏やかに過ごすことができました。

 11月7日に前原は松江の監獄に収容されました。前原らは東京に護送されることを信じていたようですが、東京の廟議ではすでに彼らの山口護送と同地での公判が決定されていました。大久保は大木喬任(参議兼司法卿)の山口出張について山口県令関口隆吉に報じ、島根県には前原一党の山口県引渡しの指令について電報を発するよう部下に命じました。11月17日、前原らが松江から汽船で萩に護送されると、関口県令は自ら出迎えて彼らを本願寺別院の寺に収容しました。山口県にはすでに裁判官として岩村通俊(土佐)、内務省から品川弥次郎(長州)が到着していましたが、岩村は前原らを寛大に遇し、品川は前原とは同じ松陰門下生だったこともあり、佐賀の乱に比べると、彼らの待遇はかなり配慮されたようです。

 臨時裁判所は11月6日から開かれ、7日間で2千余人の供述書が昼夜の別なく作成され、判決は斬罪が前原以下7人、懲役終身者64人、放免は2千余人に上りました。首謀者以外は寛大な処分であり、これには木戸の尽力もあったらしく、当時の日記に「このたびの変動、首謀のものは助けるの道なしといえども、あるいは脅迫され、あるいは欺かれ、方向を誤りしものは、実に憐憫に堪えず、余もしばしばそれ等に寛典の処分これ有りたく頻りに希望し、今日はまた大いに尽力せり」とあります。佐賀の乱のときには大久保自ら現地に乗り込みましたが、今回の萩の乱では代わりに大木を派遣しているのをみると、長州ということもあって、大久保も木戸に気を使ったようです。
 
 12月3日にひとりを除く7人の刑が執行された際には、関口県令も前原らに別れを告げに来ており、別れの宴では生卵を肴にして酒を飲み、前原は白装束で朗々と詩吟(楠公父子勤王の詩)を謳いあげました。処刑前には前原の筆跡を乞う者が多く、膝前に積み上げられた紙に次々と筆を走らせていると、役人が「さあ早く、早く」と急き立てました。彼は「任せた命じゃ、騒ぐな」と言って、悠然と筆を動かしていたといいます。享年43。辞世の詩は、「吾今為国死 死不負君恩 人事有通塞 乾坤弔吾魂」(吾いま国のために死す 死して君恩にそむかず 人事も通塞あり 乾坤わが魂を弔う)。師・吉田松陰の辞世と、どこか似ています。
 他の刑死者は奥平謙助、横山俊彦、山田穎太郎など6名。なお、この乱に関係して、松陰の叔父玉木文之進が自刃しており、東京では前原らと呼応して起とうとした旧会津藩士永岡久茂ら一味の企てが未然に発覚して、逮捕されています(「思案橋事件」)。

 士族の叛乱はなんとか収束させましたが、それで安心するわけにはいきませんでした。明治6年に布告された地租改正令に不満をもった農民一揆が全国に広がろうとしていたのです。


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