木戸孝允への旅 120


維新編(明治9年)


● 地租改正に因る農民一揆 + 西南戦争前夜

 地租改正は全国一律に地価の3%金納を定めた法令で、金額は過去5年間の米価の平均で算出されました。したがって、米価が下落すれば税が割高になり、これに加えて民費(地方税)の支払いもあったので農民は難渋するわけです。ちなみに明治8年の一石あたりの米相場は東京で5円7銭、大阪で5円27銭でしたが、明治9年には東京で4円20銭、大阪で4円35銭と1円近くも下落しています(いずれも12月1日、特定の一市場)。せめて半分を米納にさせてほしいと嘆願しても、官がわは受け入れず、三重県ではそのために暴動が起こりました。地租改正に反対する運動は明治9年ごろから大規模になり、5月に和歌山県で農民が蜂起すると、11月には茨城県真壁郡や那珂郡で、さらに12月には三重県飯南郡で大一揆が起こったのです。

 三重県の一揆は20余カ村に広がり、愛知、岐阜、堺県下にも波及して、津の県庁、警察、裁判所、銀行などが襲撃、破壊あるいは焼き払われ、軍隊の出動によってようやく鎮圧されるほど激しいものでした。政府は近代化政策の財源確保のため、旧来の貢租(こうそ)と変わらない水準を維持する方針をとったので、地方によっては増税になるところもあり、その不公平感が農民の不満を爆発させた要因にもなったのです。木戸は以前から地租の軽減について意見書を提出しており、同年12月12日の日記に「~地租改正に至りては、人民の苦情少なからず、改正もまた急にして公正を失うものあり。故に余昨年もしばしば緩延して、よくその事実を察し、不公平の処分に陥らざる様いたしたく、しばしば陳言するといえども、言みな行われず。かかる報を聞しごとに覚えず心塞ぎ気を閉ざすこといく度と知れず、嗚呼。よってまた決意建言せり」とあり、士族の叛乱には厳しく対処しても、農民の一揆には深い同情をよせていたことがわかります。

 木戸は12月に改めて関連する意見書を三条・岩倉に提出しており、その中で政府の責任を問い、その原因を質し、自らの意見が軽んじられてきた不満を述べ、さらに華士族に対する秩禄処分のやり方や鹿児島の特別扱いに対する批判まで堂々と書き連ねています。木戸の意見を要約すると、「百姓一揆は士族の蜂起とは違うこと、地租改正の成功を急がず、地方の実情を把握して、人民が困窮しないように税を軽減し、政府は不急の建築などを止めて支出を抑えること。民費は政府が押しつけず、各地の民力にしたがい、町村会の協議に任せること。華士族については、将来の生活が成り立つように配慮する。彼らが生活に窮すれば国家の富強にも影響するので、独立の力がつくまでよろしく保護すること。法律はまず人民ありきであるから、民情に適したものであること。政府は各県の強弱によってその政策を違えてはならず、公平を旨とする。政府は漸進主義をとっているか? 否、今の政府は(民選議院の実現を除けば)急進派である。自ら是とするところを直ちに人民に行い、その成功を急いでいる。人民に適するか、適さないかを、よく考えるべきである」
 
 大久保はもちろん、こうした農民一揆の頻発を憂慮していましたし、なによりも木戸が政府から離れていくことを恐れていました。彼はまた、今回の士族の蜂起(熊本・秋月・萩の乱)に鹿児島が関与しなかったことに安堵しながらも、警戒心を緩めてはいませんでした。西郷自身というよりも、彼を大将とあおぐ私学校徒たちの動静に油断のならないものを感じていたからです。こうした大事な時期に木戸との関係がギクシャクしていては、思い切った手を打つこともできません。政府の体制をしっかり固めるため、地租改正については木戸の意見を考慮して、大久保はその軽減を決意するに至ります。明治10年(1877)1月4日、地租は地価の100分の3から100分の2.5に、地方税は地租の3分の1から5分の1に減じられることが発表されました。総額で25%の減税で、
 「竹槍で ちょっと突き出す 2分5厘」とは、農民がその闘争の勝利をよろこんで広めた川柳です。

 さて、話は鹿児島に移りますが、鹿児島の私学校は、明治6年の政変で西郷が参議を辞して帰郷した翌年、明治7年6月に設立されました。西郷と行動を共にして帰郷した多数の若者を組織・管理するため、本校は篠原国幹(元近衛局長官)を監督とする縦隊学校(5~600名)、別棟には村田新八(元宮内大丞)を監督とする砲隊学校(約200名)が作られ、他に士官養成を目的とする賞典学校(資本は西郷、大山などの賞典禄)などがありました。市内にも12の分校があり、市外にも次々と分校が建てられていったのですが、その費用は県庁(県令は大山綱良)が協力して出していました。やがて県内の区長、副区長、戸長、はては警察署長、幹部、巡査にいたるまで、すべて私学校の人材によって占められ、県全体が西郷を長とする私学校党によって支配されるようになったのです。

 そのうえ、鹿児島では地租改正も廃刀令も行われず、秩禄処分については他県より有利な条件を認められるなど、特別待遇を受けていました。木戸はこうした事態を問題視して、再三にわたって大久保を責め立ててきました。なぜ放っておくのかと――。大久保もこのままではいけないと感じてはいたものの、いたずらに鹿児島の士族を刺激して不穏な状況が生ずることは避けたかったようです。ただ、私学校の勢力がこれ以上大きくならないように、大久保は明治9年7月、大山県令を東京に呼んで人事の刷新を求めたことがありました。大山は罪もない者を更迭できないと言い、大久保が強いて実行を迫れば、では任に堪えないので自分が辞める、と言い出す有様でした。もはやすべてが遅きに失しており、それ以上の強制もできないまま、鹿児島は日本国にあって一独立国を形成するかのようになっていきました。

 同年10月に起きた熊本・萩などの士族の乱には私学校党も相当に刺激されたようで、蜂起のうわさが東京にも伝わってきて、政府も彼らの動向に敏感にならざるを得ませんでした。なかでも大久保の腹心、川路利良(大警視)は役目がら鹿児島の情報収集に傾注し、12月下旬には同郷の中原尚雄(少警部)ら20余人の警部・巡査らを休暇の名目で鹿児島に送り込んだのです。もちろん、私学校党の探索については大久保の内命を受けていたのでしょう。一方、鹿児島がわには「政府に討薩の議あり」との流説、さらに「政府ひそかに刺客を鹿児島に遣わし、西郷大将を暗殺せんとす」との流言が伝わり、驚いた私学校徒が西郷の身辺を警護しはじめるという事態に発展し、中央政府と鹿児島の双方が疑心暗鬼に陥っていったのです。

 私学校の者たちは川路を「裏切者」とみて憎んでいました。川路は与力出身でしたが、戊辰戦争で功をあげ、士班に列する身分を得ました。西郷が彼を兵児(へこ)隊の隊長に抜擢したことで、活躍の機会が得られたのです。明治5年には邏卒総長に任じられ、警察制度取調べのために渡欧、1年間を海外で過ごしました。明治6年の政変では西郷とともに帰郷せず東京に留まったので、彼を「恩知らず」とみる者もいたようです。川路は外国で学んだ警察制度を日本に取り入れ整備するなど、国家に尽くす仕事のほうがより重要と考えたのでしょう。必然的に大久保がわにつくことになり、今度の場合も、私学校を敵視した偵察を指揮していることで、西郷がわの鹿児島士族には川路が「裏切者」とうつって憤激したのも仕方のないことでした。

 逆に、外城士族(多くは警察組織に勤務)は城下士族(多くは近衛兵・将校となる)に対して、差別を受けてきた恨みもあり、政変時には西郷を慕っていた者も帰郷を嫌ったようです。鹿児島に密命を受けて派遣された中原尚雄も元の身分は外城士であり、かつては城下士と大喧嘩するほどの暴れん坊だったといいます。そんな彼の任務は私学校党を偵察し、かく乱、分断して、その勢力をそぐことでした。これは実に危険な挑発ともなり得ましょう。川路はそれを知りながら、やむを得ない策として中原を抜擢したのでしょうか。もはや中央政府と鹿児島は、後戻りできないところまで来てしまったのかもしれません。

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補記: 鹿児島の武士団組織
外城(とじょう)士族とは城下(鶴丸城)の外域に居住する半士半農の「郷士」のこと。城下士からは「一日兵児」(ひしてべこ)と蔑まれた。人口の四分の一は士族で、家臣団の89%が外城士だった。城下士も御一門四家、一所持(一郷の領主)、一所持格、寄合、寄合並、無格(以上が上級士)、小番、新番、御小姓与(ぐみ)(下級士)に分けられ、さらにその下に家来、与力、足軽がいた。西郷、大久保、篠原は小姓与、川路、桐野らは郷士待遇。小姓与の禄高は名目150~200石だったが、実際はそれ以下で、財政がひっ迫した幕末には西郷家なども貧乏生活を強いられた。郷士は100石以下。


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