木戸孝允への旅はつづく 12


青年時代(萩)


● 吉田松陰、過激に走る

吉田松陰は自宅拘禁中ではありましたが、いたって元気で、4年ぶりに会う小五郎をよろこんで迎えました。酒を酌み交わしながら、小五郎は江戸や水戸の情報を伝え、幕府の尊攘志士への弾圧が厳しいので、今は行動を起こさずに自重すべきことを松陰に説きました。だが、松陰は江戸がそれほど危険なら、やはり殿さま(敬親)の出府は避けるべきで、有志を伏見にやって、そこで殿さまの行列を迎えて京都にお連れしようと言いはります。
実際、松陰は門下生の伊藤伝之輔と野村和作を上京させようとしたのですが、計画が事前に漏れて、伊藤は入獄、野村は自宅謹慎の処分を受けていました。小五郎が必死に諌止するので、松陰も終いにはそのことを主張するのをやめました。だが、これで師が危険な言動を控えてくれるのか、小五郎はなお不安を拭いきれませんでした。その晩、二人は深夜まで語り合って別れています。
松陰が野山獄に移されたのはその二日後でした。老中間部の暗殺計画は断念しましたが、殿さまを伏見で待って京に導いた後、旗挙げするという計画(伏見要駕策)を、松陰はなお諦めようとはしませんでした。この時期に梅田雲濱門下の武士が2人、松陰と同じ計画をもって萩を訪れました。その2人と行動を共にしたいと、入江杉蔵(野村和作の兄)から知らされた松陰はすっかりその気になり「まず殿さまと藩の幹部を説得せよ」と杉蔵を激励しました。松陰は藩ぐるみのクーデター計画を実現させるつもりだったようです。
小五郎はもはや松陰をすべての門弟、友人と絶交させなければ、本人もろとも藩自体が滅びると思いました。師に対してこんなことを策するのはつらいけれど、彼は松陰の叔父・玉木文之進の力を借りることにしました。松陰が再び幕府に捕えられることを小五郎は恐れたのです。文之進も同じ危惧を抱いていたのでしょう。すぐに松陰の兄・梅太郎を呼んで事情を説明し、梅太郎が、諸友と絶交するよう獄中の松陰に伝えました。
松陰は小五郎をなんとか味方につけようと考えていたので、兄からこの話を聞かされたときには衝撃を受けました。信頼していた桂までが……松陰にはもはや頼る者がいませんでした。来原良蔵は松陰の間部暗殺計画に反対して、すでに松陰から離れて長崎に去っていたのです。
「来原すでにわれを売りて西に去り、桂またひそかに計りてわれを撓むることかくのごとし」
松陰は落胆しましたが、小五郎の助言には従うことにしました。「桂は厚情の人だから、彼が『同志と絶交せよ』というなら、努めてこれを守ることにする」と高杉晋作宛の手紙に書いています。これより少し前に、松陰は江戸にいる弟子たち(高杉晋作、久坂玄瑞、飯田正伯、尾寺新之丞、中谷正亮)から自重を求める血判状を受け取っていました。みな師の過激な言動が引き起こす結果を心配していたのです。それでも、松陰の激しい行動への衝動は抑えきれるものではありませんでした。絶望のあまり絶食をはじめて、肉親から止められると、今度は再び「要駕策」を実行しようと、三位大原重徳への手紙を入江兄弟ら、松陰のいう「草莽」(身分の低い者)に託したのです。だが、そうした工作も途中で発覚し、兄弟は獄に繋がれて、一縷の望みも失われてしまいました。直目付の長井雅楽が、幕府から届けられた吉田松陰の召喚状をたずさえて、江戸から萩に戻ってきたのは5月半ばのことでした。


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