木戸孝允への旅 121


維新編(明治10年)


● 西南戦争(その1) - 私学校徒の暴発

 木戸を再び参議にもどして政府を強化しようとする動きは、熊本・秋月・萩に起こった士族の乱が終息したころから始まっていました。はじめは主に伊藤博文、鳥尾小彌太(陸軍中将)、品川弥次郎(内務大丞)など長州人が木戸の説得にあたりました。しかし木戸は大久保とは政見の異なることを理由にきっぱりと拒絶したうえで、三条邸に赴いて、農民蜂起の原因となっている地租改正の弊害について憂慮を示す意見を直接伝えたのです。そして、木戸の意見どおり、地租軽減が決定、発表されたあとは、参議の復帰を要望する声がいよいよ高まっていきました。伊藤は岩倉の内意を受けて、木戸に再任の必要性を懸命に説きましたが、木戸の拒絶を翻すことはできませんでした。

 その後、岩倉が三条とともに木戸を直接説得する機会を持っても、木戸は容易に承諾せず「むしろ大久保が内務卿を辞めて、自分と同じ内閣顧問となり、天皇輔弼(ほひつ)の任に専念すればよいのです。そうすれば、内閣諸卿分離の約束を実行できるではありませんか」と持論をくりかえすだけでした。後日、岩倉と三条が別々に木戸の説得を再び試みましたが、またしても失敗。そのころ、天皇の京都行幸が決まって、木戸はその供奉員に内定していました。木戸は持病のこともあり、内閣顧問の職も辞めたいと思っていたので、供奉員の罷免を求めて徳大寺宮内卿に尽力を請うほどでした。また、鳥尾、品川らがなお熱心に木戸を説得にくるので、口頭で復職の不可能を告げたあと、鳥尾には手紙を書いて、自分のために奔走することは無益である、と知らせたのです。これまでの経緯を述べ、

 「~政府に小生を無理に引きづりこむ主意一向にあい分からず、必ず一時のご都合なるべし。小生もまた人なり。実に身の毛がよだち申し候。浪華においても、大久保始め言葉は丁寧極まり、慢心汗を生じ候心地いたし申し候。然して、政府上へ一度出候あとは、まったく無銭の田舎野郎が全盛の清楼に登りし形況のごとく、汚辱を受け不快を来し、実に一言半句も決して益なきを知る。その跡は筆頭に尽くし難し」

 とあって、板垣らとともに大阪会議で約束したことが水泡に帰したことを強調しており、その口惜しさがひとしおであったことがわかります。木戸と大久保が直接長い話し合いを持ったのは明治10年1月18日のことでした。木戸が大久保の邸に赴き、腹にたまっていた不満を吐き出したのです。なかでも鹿児島県については、朝威もおよばず、西郷党が県政を牛耳って勝手なことをしている。そのために廟議も豹変して国家の根軸が容易に定まらず国民も不幸を被るのに、なぜ放っておくのか。これ以上鹿児島を特別扱いするべきではない、と大久保を責めたてたのです。この件は大久保の悩み事でもあったので弁解はせず、自らの見解も述べて、二人の会談は7時間にもおよびました。

 木戸は早くから陸軍省が鹿児島に貯蔵している武器・弾薬を移転するように主張していました。大久保はすでに私学校徒の分裂をはかって、川路を通して工作員を送りこんでいましたが、さらに三菱汽船「赤龍丸」を使って、これらの兵器をすべて大阪に移すように指令したのです。木戸の要求を最もなことだと思っていても、これまでは鹿児島を刺激することをためらっていたようです。しかし、もはや事態は切迫しているとみて、県庁にも届け出ることなく、夜間ひそかに実行されたのです。そのうち私学校党も異変に気づいて、1月29日の深夜、火薬局を襲撃してこれを略奪、さらに翌日には海軍造船所を襲ってそこの小銃、弾薬も奪い取ってしまいました。

 ほぼ時を同じくして、中原ら帰省中の警察官21名が大山県令の命令で捕らえられました。すでに県庁は西郷派の私学校徒で固められており、彼らが鹿児島に着く前からその情報をつかんでいて、東京獅子(あづまじし)と呼んで警戒していたのです。中原は凄惨な拷問を受けた末に、西郷暗殺の密命や私学校の解散工作を白状したと言われています。中原と同じ外城士出身の者に谷口登太という者がいて、中原とは旧知の間柄でした。谷口は私学校党の工作員として中原に接近し、いろいろと探りを入れていたのです。スパイにはスパイをもって対抗せよ、ということで、彼が仲間に知らせた話によると、私学校を瓦解させる策として、中原が語るには「第一、西郷隆盛を暗殺すれば、必ず学校は瓦解する」と。これが挙兵の名義になったのですが、のちの裁判の場における谷口の口述とは微妙に相違しており、真実なのか、私学校徒がわの創作だったのかははっきりしません。

 口述の一部には、「もし西郷が事を挙げる時期に至れば、立越し議論におよび、聞き入れざるときは、刺し違えるよりほかに手はない。この人とともに斃れるならば、わが身において不足はない」とあり、単に中原の覚悟の強さを表しているだけで、最初から暗殺を謀っていたとは思えません。まして、大久保がこれを指令したとは考えがたく、のちに「西郷刺殺計画」の話が東京に伝わってきたとき、岩倉は「刺殺というのは、視察の間違いではないか」と大久保宛の手紙に書いています。いずれにしても、事は起こってしまいました。私学校徒による火薬庫襲撃の事件が起きたとき、西郷は遊猟のため大隅方面に出かけていました。この事件の知らせを受けたとき、西郷は「しまった」、あるいは「弾薬に何の用があるのか」と言って、おもむろに立ち上がり帰路についた、と伝えられています。

 その時点で西郷は、若い子弟らが政府がわの挑発に乗ってしまったにせよ、「もはや矢は放たれた。後へ引き戻すすべはない」と覚悟を固めたのかもしれません。2月3日に西郷は鹿児島武村の自宅にもどり、5日には私学校本部に入りました。各郷からおびただしい人数が集まり、帯刀する者、銃をかつぐ者、みな勢い盛んで戦時と変わらない状態になっていました。西郷という最高の神輿が動き、彼らは向かうところ敵なし、と思っていたのでしょう。桐野利秋、篠原国幹ら幹部らをまじえた評定の結果、挙兵上京に決して、県令大山にその旨が伝えられました。大山が各県庁、鎮台に通知した文章は、

 今般、陸軍大将西郷隆盛ほか二名、政府へ尋問の筋これあり。旧兵隊ら随行、不日に上京の段届け出候につき、朝廷へ届の上、さらに別紙のとおり、各府県並びに各鎮台へ通知におよび候。ついてはこの節に際し、人民保護上一層注意着手におよび候條、篤くその意を了知し、益々安堵致すべく、この旨布達候事。 但、兇徒中原尚雄の口述あい添え候。
 明治十年二月十二日  鹿児島県令  大山綱良


 明治10年2月15日、篠原と村田新八が率いる薩軍一、二番大隊が第一陣として出発、その日は50年ぶりの大雪でした。先鋒隊として、別府晋介の指揮する六、七番連合大隊はすでに出発しており、16日には永山弥一郎、桐野の三、四番大隊が、17日には西郷の護衛隊と五番大隊(隊長は池上四郎)も出陣し、総勢は1万3~4千人。軍略会議では全軍長崎に進行して軍艦を奪い、東京、大阪を目指すという策も出されましたが、最終的には桐野らの主張した全軍熊本進撃の策が採用されました。

 西郷軍に対して征討令が発せられたのは2月19日で、征討総督は有栖川熾仁親王、征討参軍は陸軍卿・山縣有朋、海軍大輔・川村純義でした。そのころには、すでに西郷軍は熊本に進入していました。

★ 本121話にかかわる弊館内の記事
維新の恋 (19)西南に風雲あり、(20)西南戦争 


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