木戸孝允への旅 122


維新編(明治10年)


● 西南戦争(その2) - 政府側の動静+熊本城の攻防

 政府側の動静

 鹿児島の叛乱軍に征討令が発せられたとき、木戸は京都に滞在中でした。孝明天皇十周年祭のため、三条、山縣らとともに天皇の京都行幸に従って1月24日、横浜より『高尾丸』に乗船、28日には京都に到着していたのです(伊藤は仕事の関係上、遅れて着)。鴨川べり土手町にある旧近衛家の別邸を、木戸は京都府権知事・槇村正直を介して購入しており、ここが京都での住いでした。翌日には訪ねてきた山縣有朋とともに霊山へ詣でましたが、途中で胸の痛みをおぼえ、夜になるとその痛みが激しくなって、医師の治療を受けるほどでした。幸い、痛みはやわらいだので、翌日は参内し、以後、天皇の畝傍山(うねびやま)東北陵(神武天皇御陵)、後月輪陵(孝明天皇御陵)、各神社参拝や学校、工場の視察に供奉、神戸・京都間の鉄道開通式に出席するなど、一連の行事は滞りなく行われていました。

 その間、鹿児島に異変(薩兵による弾薬の略奪)あり、との一報が入ったのは2月5日のことで、木戸は前日に、九州へ派遣されていた林友幸(内務少輔)から「異常なし」との報告を受けていたのでおどろきました。まず廟議が開かれ、現況視察のために川村純義(海軍大輔)を林友幸とともに鹿児島に派遣することが決定され、7日、二人は高尾丸に乗船、汽船太平丸と迎陽丸を伴って神戸を発し、9日に鹿児島前浜に投錨しました。すると、海岸一帯にはすでに見張りの兵が出ており、刀や銃を帯びた者たちが警戒にあたるなど物々しい雰囲気になっていました。そんな中での川村の上陸は危ぶまれたので、知らせを受けた大山(県令)が海岸まで出かけて、船中で川村と会見しました。大山は中原による西郷暗殺の自白について語りましたが、川村は正当な手順を踏んでいないことを問題視し、口述書の提出を求めました。しかし、大山は関連の書類を入手しておらず、川村が求める西郷東上の猶予についても、「もはや西郷一人の問題ではなくなっており、他の者を説得するのは難しい」と答えました。

 その後、川村と西郷が両者の親戚にあたる椎原(川村の義父で西郷の叔父に当たる)家で会談する合意がなされたのですが、私学校の者らが武装して小船3艘に乗り込み、高尾丸に近づいてくるので、川村は余計な衝突を避けるため、自船を港から出して沖に向かわざるを得なくなりました。結局、川村の上陸も、その替わりとなる西郷の高尾丸への乗船も、双方の兵らに警戒されて実現にいたりませんでした。こうして西郷と直談判を行う最後の機会は失われてしまったのです。その間においても、鹿児島、政府がわ、双方の戦闘準備は着々と進行していました。
 
 鹿児島に事起こるだろうことは政府がわでは前年末から予想しており、弾薬略奪事件が生じた際にも、大久保などは「これで征討の口実ができる」と内心では喜んだほどでした。問題は西郷が起つか、起たざるか、であり、当初は大久保、岩倉、木戸も、西郷が暴徒に与することはない、と信じていたようです。そのため、鹿児島に勅使を派遣して、島津、西郷に直接働きかける案が持ち上がり、岩倉、大久保が自ら勅使になって鹿児島に赴くことを希望したのです。大久保は岩倉の勅使に反対し、大久保の勅使には三条、伊藤が反対して、天皇の勅許も得られなかったことから、この話は沙汰止みとなりました。一方、木戸は勅使の派遣そのものに反対していました。

 薩摩の蜂起については、大村益次郎が生前において早くも予期し警戒していたことでした。木戸も、いまや軍備拡張のうえ治外法権化している同地を正常化するには武力討伐以外にない、と思いつめ、自ら命を賭して戦地に赴く覚悟をかためたのです。彼はその希望を実現するべく三条へ嘆願し、伊藤、山縣、鳥尾、さらに大久保にもその尽力を請い、東京の岩倉には数度にわたり手紙を書いて、自らの心情を切々と訴えています。

 このたびは孝允一死をもって相報い度と存じ詰め、実に従来薩州の勢力にて政治上大いに平均を失い、政府の公平を失うもの少なからず、ここに至り毫釐(ごうりん)も相譲り候ては、決して王政を保ち難き事と存じ奉り候。何とぞ出先において相尽くし、自然薩人の弾丸に触れ候て往生候えば、善智識の引導よりも満足の次第につき、切迫嘆願仕り候えども、未だ御採用に至らず、恐縮流涕(りゅうてい)のほか御座なく候。~ (2月20付 岩倉宛)

 このように、木戸の前線出張への思いは強烈でしたが、すでに前日には天皇の御前に召し出され、厳命をもって差し止められていました。それでもあきらめきれずに、身体の不調をもかえりみず嘆願を愚痴のようにくりかえしていたのでしょう。なお大久保は、征討軍の司令基地が大阪と定められたことから、2月13日に東京を発し、横浜より玄武丸に乗船して、京都には2月16日に到着しています。

 西郷の蹶起については、木戸、大久保などに加えて、実弟の西郷従道、従弟の大山巌さえも「大義名分に反する事件を起こしてしまった賊徒には、決して与(くみ)することはない」と信じていました。しかし、大警視・川路利良は最初からこうした考えには懐疑的で、「西郷はかならず起つ」という確信があったようです。そのため彼も木戸同様、勅使無用論者であり、敵に時間を与えず、一刻もはやい出兵を主張していたのです。すでに、熊本鎮台には谷干城(少将)が、広島鎮台には三浦梧郎(少将)が司令長官として赴任しており、前年の萩・熊本(神風連)の乱後における西南の動きを警戒していました。

 熊本城の攻防

 熊本鎮台から山縣(陸軍卿)に、薩兵の水俣(熊本南部)到来の一報が入ったのは2月12日のことでした。山縣は谷に、「攻守ともにその宜しきに従うべきも、ただ万死を期して、熊本城を保たざる可からず」(戦法は任せるが、熊本城を死守せよ)と指令しました。参謀長・樺山資紀(すけのり)は出撃論を主張していましたが、鎮台兵には農兵が多く屈強な薩摩士族が相手では力不足であること、1万を超える敵勢に対して味方は4千余に過ぎず、さらに熊本士族が西郷軍に加わる可能性があることなどから、谷は籠城して援軍の到着を待つことが上策と考えました。ただちに将校会議を開いて守備の区域と部署を定め、土壁を要所に築き、じゃまな樹木を伐採し、必要な道路を新たにつくるなど、昼夜兼行で籠城の準備がすすめられました。

 そんな中、天守閣が全焼して、備蓄していた食料米5百余石がすべて灰になるという事故が起きたのです。すぐに市の内外に調達に走ったところ、幸い焼失した以上の量が確保できたのでひと安心でしたが、この火事が失火だったのか、あるいは放火だったのか、原因はわからずじまいでした。しかし、これによってかえって緊張感が高まり、決死の覚悟が強まったようです。また同日(19日)、すでに来援を求めていた小倉の第十四連隊(隊長は乃木希典少佐)の一部が熊本城に到着し、翌20日には綿貫少警視率いる東京警視隊4百余名が入城、21日には富岡敬明(熊本県令)、品川弥次郎(内務大書記官)以下10余名の県官吏も入城を終えました。城内では各要所の砲台、兵隊の配備が完了し、ここに熊本城の守備はしっかりと固められて、敵軍を迎え撃つ準備が整ったのです。

 一方、薩摩軍の陣容はどうだったでしょうか。私学校党など西郷直属の部隊はおよそ1万3千、開戦後の徴募兵が1万、熊本隊・協同隊・瀧口隊が2千5百、その他を合わせて計3万余人となりましたが、当初は西郷本人も熊本鎮台が抵抗するとは思っていなかったようです。桐野も篠原も自信満々であり、たとえ途中抵抗する者がいても難なく蹴散らして行ける、未だ陸軍大将である西郷の姿を見ればみなつき従うぐらいに考えて、なんら具体的な戦略、戦術も練っていませんでした。既述したように、西郷軍は17日までに全軍が出陣し、降りしきる雪に悩まされながらも、21日には熊本城から2里の川尻に到着しました。すでに城下が戦闘態勢にあることは、先鋒隊の別府晋介によって報らされていたので、ここで進軍を止め、哨兵を各所に配して警戒し、城を包囲して開戦を決することになりました。

 薩軍にとっては意外な展開でしたが、この上は一気に攻撃して熊本城を陥落させないかぎり、海峡をわたって全軍で目的地までたどり着くことはできません。兵力の分散は避けたいところで、初戦は、籠城がわからの夜襲による小競り合いを除けば、22日早朝から始まり、薩摩軍は正面軍(指揮官・池上四郎)と背面軍(指揮官・篠原国幹)に分かれて熊本城を猛攻しました。激しい銃撃戦がつづき、砲弾が炸裂する中、城兵も必死に防戦しましたが、樺山参謀長が負傷し、與倉連隊長は致命傷を負って落命してしまいました。しかし、攻撃がわも城内からの間断ない大砲・小銃の乱射を受けて、少なからぬ死傷者を出し、なかなか城壁に近づくことができません。結局、その日はどの隊も城内に突入することができずに退却を余儀なくされました。

 翌23日の戦闘は城兵が城外戦を挑んで善戦したこともあって、薩軍の士気はやや衰え、作戦の変更が話し合われました。すなわち、強襲による兵力の損耗をふせぐために、持久戦によって相手の兵糧が尽きて自然に落城・投降するのを待つ戦法に傾いたのです。したがって、薩軍は来援の政府軍を防ぐ目的で、24日には各大隊から一部を割いた混成軍を攻城戦に残し、主力を山鹿、田原、木留の各方面(指揮官は桐野利秋、篠原国幹、村田新八・別府晋介)に前進させて、敵の援軍を迎え撃つ作戦を採ることになりました。こうして薩軍の指揮官らは当初の甘い思惑に反して、熊本城が1日や2日で容易に陥落できるものではないこと、明らかに準備不足であったことを思い知らされたのです。


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