木戸孝允への旅 123


維新編(明治10年)


● 西南戦争(その3) - 田原坂の攻防+熊本入城

 田原坂の攻防

 籠城戦が長期化の様相を呈する一方で、入城に間に合わなかった小倉十四連隊の後続部隊(指揮官は乃木希典)は、田原坂(たばるざか)を越えて、一刻もはやく熊本城にたどり着こうとしていました。その動きを知った攻城軍は、二個小隊を割いて当該部隊の迎撃にあたらせます。乃木連隊は植木の付近で急行してきた敵軍と遭遇し、はじめて交戦におよびますが、苦戦をかさねた末に連隊旗まで奪われるという失態を演じてしまいました。乃木は旗を奪い返そうとしましたが、部下に「ここは連隊長の死に場所ではありません」と涙ながらに諫められ、やむなく退却したのです。これ以後、薩摩軍には地元の地理に通じた熊本隊(主将:池辺吉十郎)や協同隊(主将:宮崎八郎)、さらに大分・宮崎からの有志隊も加わって田原坂一帯に防禦線を張ったので、政府軍はここの突破に全力を注がなければなりませんでした。

 田原坂は左右に断崖がそそり立つ天然の要害で、樹木が生い茂り、坂道も曲がりくねっていたので、潜伏する敵兵と戦って突破するのは容易なことではありません。とくに勇猛な薩摩の抜刀兵が飛び交う弾丸をかいくぐり、神出鬼没に官軍を襲うことには狼狽する兵らも多く、その対策に難渋したのです。別に狙撃隊を編成して対抗してみても、白兵戦では思うほどの効果は上がらず、濃霧に奇襲して敵の防塁のいくつかを奪っても、すぐに抜刀兵の反撃にあって奪い返され、一進一退を繰り返すばかりでした。はやく救援隊が熊本城に到達しなければ、城内の兵糧が尽きて落城してしまうかもしれないのです。

 そこで、抜刀隊には抜刀隊をもって対抗する、という戦術がとられます。それまで警察隊は地方の警備や弾薬護送など後方支援にまわっていましたが、後方任務よりも前線で活躍することは彼らの望むところでした。すでに熊本城にも警察隊の一部が入城しており、この際、精鋭100名を選抜して、官軍がわの抜刀隊として田原坂の攻防戦に参戦させることになりました。抜刀隊の初戦は3月14日で、彼らはよく戦い激戦となりましたが、敵塁を突破するまでには至りませんでした。しかし、薩軍には援軍の見込みがほとんどなかったのに対して、政府軍は全国から徴募の兵を補充できたので、戦局はすこしずつ政府がわに有利に傾いていきました。

 3月20日早朝、風雨がはげしい悪天候のなか、政府軍の各部隊は第一線の敵塁にせまり、砲兵の援護射撃に鼓舞されながら進撃を開始しました。不意の襲撃に賊兵は慌てふためき、塁を捨てて敗走する者もいれば、左翼では死守せんとして防戦に努める敵兵もいました。その後、後続部隊の参戦によって敵軍は後退に転じたため、追撃する政府軍はようやく田原坂を突破して植木に至ることができました。こうして、のちに「越すに越されぬ田原坂」とうたわれた薩軍対政府軍の熾烈な攻防戦はようやく政府軍の勝利に終わったのです。この方面での戦闘で、薩軍がわは西郷小兵衛(隆盛の末弟)、篠原国幹らが戦死しており、政府がわも死傷者3千人を出して、その勝利には高い代価をはらう結果となりました。

 熊本入城

 田原坂陥落のすこし前、熊本城となかなか連絡が取れないことに焦った政府は、熊本と鹿児島の県境に位置する八代(やつしろ)に数個大隊を上陸させ、薩軍の兵站線を切り、熊本城下に入る作戦を実行しようとしていました。この案は木戸がしきりに進言し、山田顕義もはやくから主張していましたが、各地の鎮台兵の大半が熊本支援に動員されて兵力不足が生じていたことも、実行が遅れた一因となっていました。そこで、この作戦でも警察官を活用し、東京鎮台兵の一部に巡査500名(警視隊)を加えて背面軍とし、指揮官(参軍)には黒田清隆を任じました。また山田も長崎出張の命を受け、同地から東京・名古屋・広島などの鎮台兵2千余人を率いて3月24日、八代に向かいました。他には高島(大佐)隊、川路隊などが加わり、25日には全軍が八代に集結し、翌日に進撃を開始しました。

 しかし、この方面でも敵の抵抗が思いのほかはげしく、鹿児島から新兵が人吉を経由して北上、八代に進出して政府軍の背後を脅かすという挙に出たのです。腹背に敵を抱えた背面軍は、熊本城とは3~4里の距離まで来ながら、なかなか前進することができません。一方、田原坂を越えた正面軍も、その先々で敵兵の迎撃に悩まされ、木葉に本営を置いたまま遅々として前進できずにいました。両方面とも兵力の不足が災いして、思い切った策がとれずに膠着状態に陥っていたのです。この難局を打開するため、大阪の行在所(あんざいしょ)で軍事事務にあたっていた鳥尾小彌太(陸軍中将)は、新たに歩兵・砲兵からなる別働隊を編成して、川尻方面の海岸に上陸させて、薩軍の本拠地を衝く作戦をたてました。

 川尻から熊本までの距離は2里で、その間に山・川もなく容易に進軍できます。この隊は別働第四旅団として4月3日に長崎に到着し、司令長官には当時、長崎で軍務に就いていた黒川通軌(陸軍大佐)が抜擢されました。ところが、現地では黒田、川村、山縣各参軍の意見が異なり、この奇襲の実行性が疑問視されたため、背面軍率いる黒田が兵力不足を補うために黒川隊の合流を求めてきたのです。一旦は了承されましたが、今度は鳥尾が、同じように兵力の増員を望んでいた山縣と協議して、むしろ正面軍に黒川隊を配して力を集中させ、急ぎ敵軍を突破して熊本城の囲みを解いたほうが良いとしたため、双方に軋轢が生じる事態となったのです。結局、この問題は、黒田の抗議を受けた京都の判断(つまり大久保利通)により、征討総督宮(有栖川)を通して鳥尾の案が却下されることで収拾されました。

 そんなごたごたはありましたが、八代に進出した薩兵に手こずっていた背面軍としては、黒川隊をその防御にあてることができたので、多少は背後の脅威を和らげることができました。それでも兵力不足は否めず、熊本への前進は容易ではありません。その間、熊本城から薩軍の囲みを突破して背面軍の本営宇土に到達した一隊がありました。奥少佐率いる部隊で、熊本城の窮状をしらせ、一刻もはやい連絡を請うたのです。それが4月8日のことで、城中には糧米が乏しく、傷兵には軍馬を屠って食べさせているとのこと、想像以上の窮状を知って、背面軍はあせり奮い立ちます。川尻進撃の策をたて、各方面に進行する部隊を定め、これを前衛、応援、遊撃隊に分かちました。山田少将は偵察を放って敵情をうかがい、川幅の狭い場所をさがして砲を備え、敵塁の側面を射撃して前進する兵を援助する策をとりました。

 背面軍は4月10日から動き出しましたが、この日は待ち伏せしていた敵兵の攻撃を受けて抗しきれずに退却します。その後、緑川をはさんで3昼夜にわたって激戦がつづき、14日、ようやく薩軍敗れて川尻から木山に退きました。一方、側面の御船(みふね)口では薩軍主将の永山弥一郎(元近衛少佐)が防戦に努めていましたが、味方の兵が潰走して周囲みな敵となったことを知ると、近くの民家を買い取ってその中で火を放ち、税所佐一郎と共に自刃しました。

 川尻を突破して、最初に熊本城に入ったのは山田配下の山川隊でした。山川大蔵(中佐)は会津人で、戊辰戦争時には会津城に籠って官軍と戦い、今は官軍として賊兵となった薩軍と戦って熊本入城の先鋒となったのです。その後、他の隊も続々と入城し、首を長くして待っていた籠城組を歓喜させました。城中の者たちはひたすら正面軍の到着を待っていたのですが、そちらの方向から砲声は聞こえてきても、援軍の姿かたちは一向に見えて来ないので、
「酒は見えたか 煙草はまだかいな 旅団は植木でトッチリトン 音ばかりでションガイナ」
 と替え歌を唄って気を紛らしていたといいます。

 黒田など背面軍の幹部は15日に入城し、携えてきた牛肉、鶏肉、米、酒、医薬品などをわたして籠城54日の労をねぎらいました。翌16日には正面軍の山縣らも入城し、酒や肉類、乾いわし、白魚などを贈りました。すでに薩軍本営から全軍撤退の命を受けて、植木、荻迫、木留付近で必死に防戦していた薩兵が一掃されたため、正面軍は無敵の戦地を進行することになったのです。熊本城の連絡に成功したことは、政府がわにとっては大いなる勝利である一方で、西郷がわにとっては致命的な敗北となりました。もし薩軍によって城が陥落していたら、これまで様子見をしていた全国の不平士族が一斉に蜂起して、政府は窮地に陥っていたかもしれないのです。熊本城を最後まで死守した城将・谷干城の作戦の妙と、それにしっかり応えた城兵や女たちの覚悟や勇気については、当時の新聞にも称える記事が残されています。

 木山に本営を置いた薩軍は以後、政府軍との戦いで劣勢を強いられ、4月21日、木山から矢部浜町に移動して、全兵力を5軍に再編制しました。22日、西郷は村田新八、池上四郎とともに兵2千を率いて矢部から人吉に向かい、桐野利秋、熊本隊、協同隊などは翌日、江代に向かって出発しました。4月27日、川村参軍、大山少将率いる政府軍が鹿児島に上陸し、西郷軍に加担した県庁の幹部を逮捕して、鹿児島の防備を固めました。そのころ、京都にあった木戸孝允は胸痛や熱に悩まされ、外出後の疲労もはげしくなり、床に臥すことが多くなっていました。
 
 ★ 本話に関係する地図: 西南戦争時の九州地図


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