木戸孝允への旅はつづく 13


青年時代(萩、江戸)


● 吉田松陰、処刑される

吉田松陰が江戸に護送されたのは安政6年5月25日のことでした。過激にすぎる師匠を扱いかねて、しばらく遠ざかっていた門下生たちも、江戸護送の報せに驚いて、出発前にはぞくぞくと会いにやってきました。松陰はやつれて、やせ細ってはいましたが、落ち着いた様子で弟子たちを迎え入れました。2月に帰省していた久坂玄瑞は小田村伊之助(両者とも松陰の妹婿)と品川弥二郎を伴って、野山獄を訪れました。彼らは最悪の事態を予想していたのか、この時、松浦松洞に松陰の肖像を描かせています。松陰もすでに死を覚悟していたらしく、快く自分の画像を描かせ、自賛を書き込みました。その8枚の肖像のうち、6枚が今日に残されています。
周布や長井ら藩政府の要人や、弟子たちは、松陰が長州藩を巻き添えにすることを恐れていました。そのことをそれとなく本人に質すと、彼は「だれも僕の心を知らない」と言ってなげき、「たとえ一身は微塵に砕かれても、けっして長井、周布に禍を嫁すようなことはしない。藩に迷惑はかけない」と返答しています。
萩城下の郊外に、「涙松」と呼ばれる松の大樹がありました。松陰がここで詠んだふるさとへの別れの歌が残っています。

帰らじと 思ひさだめし旅なれば ひとしほぬるる涙松かな 

松陰が江戸の藩邸から小伝馬上町の獄に投じられたのは7月9日のことでした。松陰に対する疑いは、梅田雲浜との関係と、京都御所内への落し文のことでした。この落し文は長野主膳、島田左近、水野土佐守などを名指しで弾劾した無署名の文書で、これが松陰の手になるものではないかと奉行所は疑いを抱いていたのです。最初の取り調べでこうした尋問をうけて、彼はまったく覚えがなかったので、明瞭に否定し、雲浜とは学問のことを話し合っただけだと説明しました。役人もすぐに誤解を解いたのですが、松陰は拍子抜けしてしまいました。それで「自分の志は雲浜とは別のところにあるのだ」と、この機会に自分の所信を話そうと意気込んだのです。誠意をもって話せば相手もわかってくれると、松陰は思ったのでしょう。老中間部に対する計画のことも、奉行所は探知しているに違いないと思い込んでいたようです。
取り調べの奉行も、「話したいことがあれば、なんでも聞こう」と親切を装って、たくみに松陰を誘導しました。松陰はすっかり相手を信用して、「伏見要駕策」や「間部要撃計画」について正直に話してしまいました。相手は内心の驚きをかくして、松陰の話をじっと聞き入っていましたが、もはやこの男の罪は動かしがたいとみたようです。大老井伊直弼も松陰を赦すつもりはありませんでした。幕府の威信を保つためには、公儀に逆らう危険分子は抹殺しなければならない。松陰は奉行の好意的な態度にだまされたことを、あとで知ることになりますが、もはやすべては手遅れでした。死罪は免れがたいことを悟ると覚悟を決めて、肉親や知友への遺書を書きはじめました。

親思う心にまさる親心 けふの音づれ何ときくらん

10月20日付で父や叔父たちに宛てた書簡の冒頭に書かれた有名な遺詠です。10月25日から26日にかけては門下生に宛てた「留魂録」を書いています。

身はたとへ武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂

その1頁目にみえる辞世の句です。翌日には評定所で死罪の判決をうけました。われいま国のために死す、死して君親にそむかず……朗々と詩を吟じながら、松陰は潜戸を出たと伝えられています。自らを「二十一回猛士」と称した吉田松陰は安政6年(1859)10月27日、30歳で波瀾の生涯を閉じました。


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