木戸孝允への旅はつづく 14


青年時代(萩、江戸)

● 村田蔵六との出遭い

松陰が江戸に護送された時期、小五郎は健康をそこねて療養のため湯治場に滞在して、萩にはいませんでした。体調が良くなって2箇月後に萩に戻ったときには、松陰の身はすでに江戸にありました。
萩滞在中に彼はひとりの重要な人物と会談しています。村田蔵六という長州出身の医者で、当時は幕府講武所の教授になっていました。村田は山口鋳銭司(ちゅうせんじ)の村医師の息子に生まれましたが、嘉永6年(1853)に宇和島の伊達宗城(むねなり)に招かれて、海外兵書の翻訳や軍艦建造などに協力しました。安政3年(1856)4月に藩主に従って江戸に出ると、学塾「鳩居堂」を開き、まもなく蕃所調書教授方手伝に任じられ、翌年には講武所教授に抜擢されたのです。村田の肖像画をみると、額が異常に広く、眉がとびきり濃くて、頑固そうな顎をしており、一度見たら忘れられないような異相です。しかしこの頭の中には超一級の脳みそが詰まっていました。性格はくそ真面目で、無駄口を叩かず、かなり無愛想だったようです。
小五郎は松陰に説かれた竹島開拓の計画について、幕府の意向を打診するよう蔵六に依頼していました。その蔵六がちょうど帰国しており、小五郎を自宅に訪ねてきたのです。のちに竹島開拓の内願書を老中久世大和守広周に提出しているのをみると、蔵六がこの計画を進めても問題ない旨を小五郎に話したのでしょう。
どうやら小五郎は無愛想な蔵六と、かなり意思の疎通ができたようです。なによりも蔵六の知能に非凡さを感じたらしく、藩政務役の長井雅楽や、来島又兵衛らに手紙で幕府の蕃書調書と講武所に出仕している蔵六のことについて書き知らせています。開拓案は結果的に藩政府の命令で中止になりますが、幕末の歴史を動かした小五郎と蔵六との交遊はこの時期からしだいに深まってゆくのです。

安政6年2月に、小五郎は宍戸富子と婚儀を済ませました。しかし三箇月後には、17歳の新妻は実家に帰ったまま、萩に戻ってくることはありませんでした。若い富子は小五郎の家族とは馴染まなかったようです。家には義兄の和田文譲一家(三人の息子と血縁のない三人目の妻)、それに来原良蔵に嫁いだ妹治子とその子供たちがいっしょに住んでいました。しかも文譲の三男で12歳になる勝三郎は小五郎の養子になっていました。歳の近い養子の世話をし、二人の小姑に仕え、煩雑な家事をこなしてゆくことは相当な負担になったのでしょう。小五郎も無理に連れ戻すことはしないで、縁がなかったものと諦めたようです。
小五郎が麻布の藩邸詰を命じられて萩を発ったのは9月15日のことでした。お伴には足軽の伊藤利輔(のちの博文)がついていました。利輔の面倒をみていた来原良蔵から「手付として江戸につれて行ってやってほしい」と頼まれたのです。当時、利輔は19歳、小五郎は27歳で、利輔の将来の運命はこの時に決まったのかもしれません。

すでに述べたとおり、吉田松陰は同年10月27日に処刑されました。松陰は生前に、遺骸の埋葬を門下の尾寺新之丞と飯田正伯に依頼していました。二人は周布政之助が用意した藩の公金10両を賄賂として使い、2日後に役人から遺骸下げ渡しの許可をもらいました。下げ渡し場所は小塚原の回向院です。小五郎は二人からその報せを受け、利輔を伴って先に回向院に行って待っていました。尾寺と飯田が墓石と棺桶用の甕(かめ)を積んだ荷車をひいてやってくると、まもなく幕吏が松陰の遺体を入れた四斗樽を運んできたので、蓋を開けてみました。痩せこけた裸の胴体と切り離された頭部は血にまみれていました。思ったより表情がおだやかだったのは、目前の死をしっかりと受けいれる準備ができていたからでしょう。もはや物言わぬ師の長い髪を飯田がたばね、小五郎と尾寺は水をそそいで血を洗い流しました。みな無言でしたが、眼は真っ赤で、幕府への怒りに身体を震わせていました。
小五郎が襦袢を、飯田が下衣を脱いで松陰の遺体に着せ、利輔が帯を解いてそれを結び、首を胴体の上にのせ、甕に収めて埋葬しました。これで誰よりも過激だった師・松陰とは永遠のお別れです。
「仇を報い候はで、安心つかまつらず候」
その時萩に帰っていた高杉晋作は、のちにそう書き、師の仇はきっと討つと固く誓ったのです。もはや幕府と長州の間には埋まることのない深い溝ができてしまったようです。


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