木戸孝允への旅はつづく 15


青年時代(萩、江戸)

● 高杉晋作という若者

さて、ちょうど名前がでたところで、桂小五郎と並んで長州藩の運命を左右した重要な人物、高杉晋作について触れておこうと思います。重要人物といってもこの時期にはまだ書生の身分で、松陰の処刑時には藩命で萩に帰っていました。江戸に出る前には、彼は藩校「明倫館」の型にはまった講義にあき足らず、親に内緒で松下村塾に通っていました。というのも村塾に通う生徒たちはほとんどが微禄、軽輩の師弟たちだったのに、晋作は大組士高杉家(150石)の一人息子だったからです。しかも、当時、松陰は幕府より罪を得て、いまだ謹慎中の身であり、その思想が問題視されてもいたわけですから、まともな親の感覚ではとても許せることではなかったでしょう。
晋作は非常に自我が強く、育ちのせいか、わがままな若者でしたが、起臥飲食まで生徒とともにする吉田松陰の人柄と指導法には強く惹かれたようです。机上の学問ではなく、日々変化する現在の知識を伝え、昔の書物も松陰の情熱的な口調で語られると、まったく新鮮なものに蘇るのです。松下村塾では「飛耳長目録」という一冊の帳面が公開されていました。江戸や上方から萩に訪れた人々が語った時勢や社会に関する話が書き込まれた帳面です。ニュースソースは百姓でも町人でも、身分を問わず、誰からでも入手しました。晋作にとっては、明倫館では学べない、実に貴重な情報でした。
また、松陰は人の才能を引き出すことに長けていました。野山獄の獄中生活のあいだにも、11人の囚徒たちとの交流をはかり、書のできる者には書の、句のできる者には句の指導者にして、みんなで学習をはじめたのです。囚人ではなく、一人の人間としての意識に目覚めた彼らの毎日は一変しました。彼らは人に教え、また人から学ぶ意欲を抱くようになり、そのおもしろさをも味わったのです。このように、松陰の人におよぼす感化力はまことに大きなものでした。

晋作についても、松陰は彼の性格を考え、その才能を引き出すためには、だれか、ライバルが必要だと考えました。そして、晋作のライバルにされたのは久坂玄瑞でした。久坂は当時、村塾の俊才として誰もが認める抜きんでた存在でした。明倫館の入舎生(優等生段階)になっていた晋作も、久坂の才識にはおよびませんでした。負けず嫌いの彼はひとつ年下の久坂に負けまいと、必死になって勉強しはじめ、松陰も驚くほどの成長ぶりを示したのです。同じ学友の吉田稔麿には「鼻輪をとおさぬ暴れ牛」と比喩された晋作でしたが、ついに久坂とともに松下村塾の双璧と並び称されるようになり、二人の間に互いを思いやる友情も生まれました。

とはいえ、人の性格というのはなかなか変るものではありません。松陰から高杉晋作についての印象を手紙で聞かれた小五郎は、
「俊邁の少年なり。惜しむらくは少しく頑質あり、後来、その人の言を容れざらんことを恐るなり」
と答えています。なかなか圭角がとれない、乱暴な所業も続いていたらしく、かなり皆を困らせていたようです。
しかし一方で、晋作は親思いのやさしい面もある青年でした。亡くなった祖父の口癖は「なにとぞ、大それたことはしてくれるな。父様の役にもかかわるから」であり、父の小忠太も平凡で世俗的な人物だったので、特に松陰のような国事犯に息子が関わることを嫌っていましたし、時勢が不穏な折、暴れ牛たる晋作を萩から出すまいともしていました。晋作の江戸行きが久坂らより遅れたのは、そうした家族の絆が断ち切れないためでもあったのです。
そして、江戸に出てからも父の干渉はつづきました。獄中にある松陰と晋作が接触しているという話が伝わると、父は藩当局に国許への召還を願い出ると同時に、縁談をすすめて、息子を家に縛りつけようともしました。晋作は父に従いながら、気持ちは焦りに焦っていました。こうした家庭の事情を久坂には手紙で説明し、理解を求めもしましたが、その弁解がましさに、自分がいやになってしまったのでしょう。
やはり晋作は吉田松陰の愛弟子でした。家族に行動を抑制されている間にも、彼の心にひそむ師松陰と同じ狂のマグマはしだいに熱を増して、じっと爆発のときを待っていたのです。


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