青年時代(江戸)
● 丙辰丸の盟約
桜田門外で井伊大老が暗殺されたことを知った尊攘志士たちが快哉を叫んだことはいうまでもありません。小五郎もめずらしく興奮し、松陰門下の友人たちに、快挙であるといって事変を喜ぶ手紙を書いています。だが、さすがに感情の高揚をそのまま表して恥かしくなったのか、「私、性質狂気軽躁にて、一心勉強つかまつり候」と弁解しています。
一方、そのころ萩にいた高杉晋作は、すでに正月に山口町奉行井上平右衛門の二女・方(まさ)と結婚していました。ひとまず父親を安心させたうえで、軍艦教授所にはいって航海術の習得に努めていました。教授は蘭学者の松島剛蔵でした。松島は吉田松陰の妹婿・小田村伊之助の実兄で、元は医者でしたが長崎に留学し、海軍伝習所でオランダ人から航海術を学んだ人です。
小五郎は松島からの献言をうけて、海軍の充実と丙辰丸の江戸航海について、藩庁に請願書を提出していました。藩はこれを許可し、松島を艦長に、士分6人と舸子14人が丙辰丸に乗り込むことになりました。晋作にとっては家をとび出るまたとないチャンスです。彼は丙辰丸での航海実習の願書を藩に提出し、藩から許可を得ることができました。
大丈夫、宇宙の間に生く、何ぞ久しく筆研につかえんや
男子たるもの、この壮挙に恵まれて面目このうえない。いたずらに机にすわって書をひもとき、字を書いているときではない――。晋作は勇躍して丙辰丸に乗り込みました。ところが、6月に江戸に到着すると、
「予の性もと疎狂。自らその術の精緻を窮むるあたはず」
自分の性格は船乗りには不向きだとして、あっさり諦めてしまいました。江戸の藩邸では、小五郎や久坂が無事に到着した晋作を大いに喜んで迎え入れました。小五郎はこの頃には有備館の舎長になっています。
松島剛蔵は小五郎を訪ねて、水戸藩有志との提携の重要性を説きました。松陰の志を継ぐためには、水戸藩と結ぶほかないではないか、と松島は言い、水戸藩の西丸帯刀と会談したうえで、後日、上野の料理屋「鳥八十」で小五郎と西丸を引き合わせます。水戸がわの出席者は西丸と、越総太郎(結城藩医の息子)、岩間金平、園部源吉の4人でした。西丸は小五郎の意見を聞いたあとで、身命を投げ打って天下の大事を謀る以上、まず誓書を交換しなければならない、と主張します。どうやら西丸はなにか心に期するものがあったようです。小五郎はこれを承諾し、7月15日に三度目の会合を同じ場所で開きました。
水戸藩では勅諚の返納をめぐって支持派と反対派が激しく争ってきましたが、結局、反対派が退けられ、苦境に立たされていました。この状況を打開するためには、死士を放って3月3日(桜田門外の変)の劇を再演するほかない、と西丸は言います。そして、その機に乗じて有為の大藩が幕府を忠諌し、尾張、水戸、越前諸侯の謹慎を解き、政治を刷新しなければならない。そこで役割が二つある。一方は桜田につぐ激発をやって天下を破り、他方は尊攘の大義を打ち立てて、天下のことを成す。
「破と成、貴殿はどちらをとられるか?」
西丸の大胆な提言に小五郎は驚き、しばし沈黙していました。やがて、彼は「これは天下の大事である。酒楼はそうした大事を決する場所ではない」と答えます。西丸の記憶によると、小五郎は密事を議するのには丙辰丸館内がよい、と提案したと言います。しかし、実際は有備館の舎長室で17日の夜に改めて会談がもたれたようです。その時、西丸が、
「破ると成すと、貴殿の所存ではいずれが難きか」
と小五郎にたずねます。
「破るは難い」
小五郎が答えると、西丸が、
「しからば拙者が、その難きをとる」といい、
「われ必ず成さん」と小五郎が答えた、と水戸がわの資料には記されています。しかし、西丸はすでに「坂下門外の変」の準備をしていました。若い松島や小五郎にはその用意がなく、用意がない相手に「破」の役をうけもたせる気は毛頭なかったという記録が残っており、ただ小五郎の心底を知りたかった、というのが真相のようです。いずれにしても役割分担はその日に決定され、一同は血を飲みかわして誓いをたてました。
この「成破の約」は「丙辰丸の盟約」とも言われていますが、小五郎が革命志士として歩みはじめる第一歩ともいえる事件だったでしょう。
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