木戸孝允への旅はつづく 18


青年時代(江戸)

● 長井雅楽登場

小五郎と西丸との水長盟約は成りましたが、両藩を動かすためには、双方とも藩の実力者を説得して、会談させる必要がありました。すなわち、長州藩では萩にいる周布政之助(行相府の手元役兼用所役)と江戸の麻布藩邸にいる長井雅楽(直目付)です。水戸藩では武田彦九郎(耕雲斎)と美濃部新蔵(又五郎)でしたが、武田の説得は難航をきわめました。水戸藩は2年前に攘夷の密勅が下ったとき、薩摩藩や長州藩などの雄藩に使者を送って連携を呼びかけていました。その時、水戸藩は薩長が水戸藩とともに京都に尊王の旗を掲げて決起することを期待したのです。しかしまだ、両藩の内情はそこまで熱してはいず、倒幕の覚悟もできていませんでした。時期尚早ということだったのでしょう。
また、井伊直弼襲撃後にも武田は小五郎を自邸に招いて密談をしています。今日、その内容を知るすべはありませんが、おそらく桜田門外の義挙をうけて、直ちに義兵を挙げることを武田は小五郎に説いたと思われます。しかし小五郎は藩がこれに応ずるはずはないと考えて、あいまいに返答するしかなく相手を失望させてしまったようです。武田はそうした過去の苦い経験から、「長人は利口すぎて信用できない」と思ったらしく、長井雅楽宛の手紙を書いてほしいという西丸らの依頼を断ってしまいました。
そこで西丸は美濃部に頼んだのですが、美濃部も長井が手紙の返事を寄こすかどうか疑心暗鬼で、こうした密事が幕府に漏れたら一大事だという恐れもあって、やはり手紙を書こうとはしませんでした。西丸はやむを得ず手紙を偽造することにしました。小五郎には「美濃部も承諾済みなので手紙の内容をどうしたらよいかご助言願いたい」という書状を送り、何度か小五郎の意見を聞いてから、偽の手紙を完成させました。長井は小五郎を介してこの手紙を受け取ったものの、突然、藩から帰国命令を受けて、返事を書く暇もなく10月初旬には江戸を発ってしまいました。

この間、水戸の老公斉昭が8月15日に急逝しています。同じ8月に小五郎は西丸、岩間らと血盟書を交換し、「議定書」という題で「当今の勢、世間億万の人士視見するごとく、夷狄縦横に跋扈、これに加えて内には姦吏私を営み、天下日に切迫、真に皇国未曾有の御最大事」から始まって、「御相談の儀に違背はなく、違背した場合には神罰を蒙るべく、よって血判くだんのごとし」と結んでいます。
一方、丙辰丸はすでに出航して萩に戻っていましたが、高杉晋作は船に乗り込まず、ひとりだけ江戸に残っていました。父の小忠太は勝手に江戸に留まっている息子に腹を立てて、帰国を矢のように催促していました。でも、いま萩に帰ったら、いつまた江戸に出られるかわかりません。晋作はこの機会に諸国を遊歴したいと思い、請願書を藩庁に提出しました。幸い許可が下りたので、晋作はほっとしました。
8月28日早朝、晋作は旅支度をして桜田藩邸を出ました。久坂ら数人の友人たちが晋作を見送り、途中で小塚原によって師松陰の墓参りをしました。小塚原に沿って水戸街道が走っていましたが、向うの千住大橋から馬が疾駆してくるのを晋作たちはみとめました。馬に乗っていたのは小五郎で、彼は所用があって出発時に晋作を見送れなかったので、あとを追ってきたのです。小五郎の友情の篤さに晋作は感激し、見送ってくれた全員にも感謝して、気持ちよく東北に旅立っていきました。
水戸藩士たちとの密約について、小五郎はまだ久坂にも高杉にも話していませんでした。これを知ったときの村塾生たちの反応を彼は恐れたのです。血気盛んな若者たちですから、勢い込んで先走った行動をとらないともかぎりません。まず、藩の重臣たちを説き、ひとつひとつ積み木を積み上げるように雄藩連合を拡大してゆく。それまでは無駄な犠牲者を出したくない。松陰の遺志を継ぎ、それを実現させるためにも過激な師の轍を踏んではならない。そうでないと松陰の死が無駄になってしまう、と小五郎は思ったのでしょう。

周布政之助は帰藩した松島剛蔵から小五郎と水戸藩士との密約を知らされ、西丸からも「大日本史」を贈られていました。彼は返礼に長州産の刀の鍔を贈り、盟約の受諾の意思をそれとなく知らせたのです。ただ周布自身は藩の要路にあって公然と動くことはできなかったので、水戸藩とのやりとりはすでに交際を密にしている小五郎に委ねることにしました。松島はそうした事情や九州諸侯の近況を手紙で小五郎に知らせ、長州と薩摩の意思疎通についても、長井を説いて了解させなければならないと告げました。
長井雅楽は「防長二州のうちにて知弁第一」と称され、藩主父子の信任も篤かったので、小五郎も長井をなんとか説得したいと思っていました。ところが長井は10月に、和宮降嫁が勅許されたことを帰国途上の京都で耳にしました。帰国後にはロシア艦が対馬に侵入し、水兵を上陸させて勝手に兵舎を建てて居座るという事件がおこり、こうしたロシアの動きを警戒したイギリスが馬関に艦船を入港させて対抗措置をとるという危険な状況が生じていました。藩主からの諮問を受けた長井は、もはや朝廷と幕府が争っている場合ではないと考え、公武一丸となって危機に対処するべきであるという意見を上申します。これがいわゆる「航海遠略策」です。


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