木戸孝允への旅はつづく 19


青年時代(江戸)

● 航海遠略策を斬れ!

長井が藩主慶親に説いた策は、より幕府側に立った公武合体論でした。すなわち、その内容を概略すれば次のとおりになります。

「叡慮ご決定もないうちに和親交易の条約が結ばれたので、逆鱗ひとかたならず、朝廷は条約の破約を仰せ出されているが、一旦外国と結んだ条約を理由もなく破棄すれば、たちまち戦争になりましょう。そうなれば数百年太平に慣れた武士を戦に使ってもどれほどの戦力になるでしょうか。戦争というのは十分の勝算をもってやるのが古今の名将の道です。軽々しく戦いをおこして無策の戦争をし、国を敗亡させた例は古来かぞえきれません。
朝廷は三百年来、内外の政治や外交を関東に任せてきたのですから、外国も関東がこの国の政府だと思い、条約調印も正当なものとみなしております。それなのに朝廷が納得しないで条約を破棄すれば、関東は外国に対して面目を失い、非は日本にあることになります。当然、戦争となれば、航海に慣れた相手に対して劣勢の軍事力をもって戦っても勝てるはずはなく、屈辱を受けるのは必定でありましょう。
皇国のためには、京都、関東ともこれまでのわだかまりを氷解して、朝廷のほうから改めて航海を開き、武威を海外に揮い、外夷の脅迫をおしかえす方策を関東に命じれば、ご威光も保たれ、関東もこの勅命にしたがって列藩に命令を下すでしょう。そうなれば国是遠略は天朝から出て、幕府がこれを実行に移すという、君臣の位次も正しくなり、たちまち海内一和となり、海軍を整備し、士気が奮いたてば、五大洲を圧倒するのは容易でありましょう。
しかし現在のように公武が不和のまま、なんらの処置もなされなければ、国内は衰微してゆき、人民の生活はたたなくなり、外国の術中に陥って10年を経ずして悲惨な状況になるに違いありません。少し前はともかく、今は鎖国にこだわっている時ではなく、すべては天朝の御決議にかかっております。戦いは国力が十分についたときに始めるべきであり、不肖の身ながら死を恐れず率直に申し上げる次第でございます」

この理路整然とした正論には慶親も、尊攘派シンパの周布政之助も、もっともな意見として納得してしまいました。長井の説は、朝廷には譲歩を求め、従来の幕府の政策は追認するというもので、幕府擁護の色彩が強く、幕政改革に踏み込んだものではありませんでした。けれども、この策は正式に藩是となり、長井雅楽は朝廷と幕府のあいだを周旋する任務を与えられて颯爽と中央政界に乗り出したのです。
驚いたのは小五郎でした。こちらは水戸藩との盟約のことで、なんとか長井を説得して、藩全体を動かそうとしているのに、尊王攘夷とは逆に公武合体が藩の政策として正式に採用されてしまったのですから、これではなんのために水戸藩の尊攘派と盟約を結んだのかわかりません。おまけに周布政之助や義弟の来原良蔵までが長井に協力しているというのですから、冗談じゃない、とへそを曲げたくもなるでしょう。「不審千萬と存じ申し候」と6月11日付の周布への手紙に書いています。
でも藩がすでに航海遠略策を認めてしまった以上、どうにもなりません。小五郎は長井との直接的な争いは避けて、政治的な手段で挽回を図ろうと考えました。彼は水戸藩の美濃部又五郎と長井とを対面させようとしたのです。ところで、この時期に久坂玄瑞は英学修業のために江戸にいて、蕃所調所教授方の堀達之助に入門していました。若い彼は語学の勉強にはあまり熱心でなく、「航海遠略策」の話を聞くと、頭に血をのぼらせてしまったようで、長井が江戸に着いたことを知ると、さっそく会いにいきました。
久坂は長井と議論を重ねるのですが、二人の意見がかみ合うことはありませんでした。今、対馬にロシア人がわがもの顔で居座っているのに、幕府は何もできずにいる。侮辱を受けながら、ただ頭を下げるだけの外交で、なにが航海遠略策か。久坂が食い下がっても、「航海遠略策」は天朝にも藩主にも支持されている意見だと言われれば、久坂も引き下がるほかありませんでした。
小五郎も久坂も、内心の思いは同じです。「航海遠略策」はなんとしてでも斬り捨てねばならない。しかし、二人はその手段が違っていたのです。いずれにしても、小五郎にはそれどころか、自らの運命にかかわる危険な事態が待っていました。


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