木戸孝允への旅はつづく 20


青年時代(江戸)

● 攘夷派の敗北

小五郎はなんとか長井を水戸藩の美濃部又五郎に会わせようとして、前年に美濃部から受けた手紙のことを話題にし、返事を書くよう長井に促しました。もちろん小五郎は水戸攘夷派との密約の内容を秘していたので、長井は手紙を書いて美濃部に会うことを承諾しました。長井が書いた手紙を小五郎は岩間金平にわたし、岩間が偽書の件を白状して美濃部に手渡しました。美濃部はすでに小五郎にも会っていたので、偽書のことで岩間を咎めるつもりはありませんでした。こうして長州藩直目付・長井雅楽と水戸藩側用人・美濃部又五郎との会見が、小五郎の手引きで実現したのです。桜田藩邸での2人の会見には周布政之助も同席しました。
美濃部はあらからじめ小五郎から長井の公武合体策を聞いていたので、過激な話は一切しませんでした。ただ水戸藩の窮状を切々と訴えて同情を求め、長井の公武周旋については「深く感心しております。徳川家のためにも首尾よくいくよう、陰ながらただ祈っております」と答えました。長井は美濃部の返事を聞いて、水戸も公武合体に賛成しているものと信じて安心しました。少し前から小五郎が水戸藩士らとなにやら密議を重ねていることを長井も探知していたのですが、これなら心配することはあるまいと結論づけて、8月には京に向かって江戸を発ちました。長井はいまや幕閣の信任も得て、朝幕間で働く中心人物になりつつありました。

しかしその後、周布と水戸藩士たちとのいく度かの会合では、和宮降嫁のことが問題にされ、「幕府は和宮を人質にして朝廷を圧迫するつもりなのだ。実に憂慮するべきことである」と互いの本音が明かにされます。この時までには周布はすでに小五郎らの意見に賛同し、水長の密約を支援する決意を固めていました。和宮の降嫁が10月に内定されたという情報が伝わると、まず久坂玄瑞が行動を起します。
久坂だけでなく、この時期には高杉晋作が江戸に来ていました。高杉は約50日かけて関東、北陸を旅して加藤有隣、佐久間象山、横井小楠らの学識者と会ってから萩に帰りましたが、文久元年7月には藩世子定弘の小姓として再び江戸に出て来たのです。最初、高杉は父の言いつけを守って、小五郎や久坂がいろいろ奔走していても傍観を決め込んでいました。しかし、江戸の空気は彼が傍観を続けられるほどのんびりとはしていませんでした。
久坂はすでに薩摩や水戸、土佐の有志らと連絡をとりながら、さかんに活動しているのですから、良き競争相手の高杉がじっとしていられるわけがありません。久坂や他藩の志士らの活動が行き詰まってくると、彼は動きはじめます。参勤交代の途中で藩主の駕籠を止めて京都に導き、幕府と長井の公武合体策を実力で阻止しようという、かつて師の吉田松陰が計画した「要駕策」を久坂や樽崎弥八郎らと図って、実行しようとしたのです(長井の暗殺を図ったという説もある)。
小五郎は高杉らのこの動きをすぐに察知しました。高杉が来ればなにかが起る――「暴れ牛」をなんとかしなければならない、と思った小五郎は周布に相談します。高杉をなんとか江戸からひきはなそう、ということで2人の意見は一致しました。和宮降嫁のことはすでに決定済みであり、長井は正式に藩を代表して働いているのですから、それを実力で止めようとすれば藩主が窮地に陥り、高杉自身も咎を負うことになるのは明らかです。
そのころ、幕府は新しい蒸気船「千歳丸」による上海航行の計画を立てており、各藩からも希望者の随行を認めていました。高杉が以前から海外渡航を希望していたことを2人は知っていました。これを幸い、藩庁の許可を得て彼を随行員として上海に送り出すことにしました。高杉に話をすると、彼は喜んでこれに飛びついてきました。実際の出航は翌年1月でしたが、彼はあっさり「要駕策」を断念したようで、小五郎はひとまず安心しました。
ところが高杉との計画は挫折しても、久坂玄瑞はまだ諦め切れませんでした。麻布藩邸内の周布の家に血相変えて乗り込み、「藩主出府の行列を自分ひとりでも止めたい、和宮降嫁の阻止を藩主に進言する」というのです。しかし、周布は表面上は長井の公武周旋を援助しなければならない立場にあります。彼は「暴挙である」と言って久坂の慰撫につとめますが、一度言い出したら素直に引き下がるような若者ではありません。なんとしてでも行くと言い張るので、周布は小五郎を呼んで、三人で話し合いが続けられました。結局、思いつめている久坂に周布が折れ、久坂といっしょに伏見で藩主の行列を待ち受けることにしました。久坂をひとりで行かせることが心配だったのでしょう。こうなれば小五郎も成功を祈るよりほかありません。
でも2人の計画は結果的に失敗に終わります。無断で江戸を離れたことを咎められて、2人とも帰国させられてしまったのです。10数日後の10月20日、皇女和宮は将軍家に嫁ぐため、京を発して江戸に向いました。

血気にはやる者たちは他にもいました。
水戸の攘夷派が老中安藤信正を襲撃するという計画が、平山平介をとおして小五郎に知らされたのです。彼らとは「成破の盟」を結んではいましたが、小五郎は時期が悪いと思いました。すでに長井雅楽が藩主に従って江戸に戻ってきているうえに、周布も久坂も萩に帰って謹慎中であり、すべてが手詰まりになっていました。和宮降嫁も実現をみて、長井一派が得意の絶頂にあるなかで、小五郎はひとり取り残されたような気分で失意に沈んでいました。
「襲撃の実行は延期してほしい」と小五郎は西丸帯刀に申し入れました。西丸から岩間と連名の返書が届いたのは12月も末のことでした。時期が悪いという意見はもっともだけれども、人間の心には時の勢いがあって、もしこれを停止したならば、再挙はしがたい。だからやはり決行する。正月15日を期してお待ちくださるようにという、もはや小五郎にも制止しがたい決意がみてとれる内容でした。そして、文久2年1月15日がやってきます。


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