木戸孝允への旅はつづく 21


青年時代(江戸)

● 坂下門外の変

小五郎が平山平介から手紙をうけとったのは決行前日の1月14日でした。

「かねがねお話していた一件、いよいよ明日となりましたが、いろいろ準備中のことであり、参上して説明申し上げることも叶いませんので、詳しいことは大野に託してありますから、よろしくお聞き取りください」

水戸浪士たちは追い詰められていました。というのも2日前の1月12日に、宇都宮藩の大橋訥庵(とつあん)が幕府に捕えられていたからです。訥庵は清水正徳(赤城)という兵学者の息子でしたが、日本橋の豪商大橋淡雅の婿養子になりました。熱烈な尊王攘夷論者で、和宮降嫁の阻止に失敗すると、倒幕の義兵を挙げようと輪王寺宮擁立に動きましたが、これも人数不足で挫折してしまいました。その後、訥庵は水戸勤王派と接触し、安藤暗殺計画に荷担することになったのです。その立案、斬奸趣意書は訥庵の起草ともいわれています。そればかりではなく、彼は一橋慶喜を擁して義兵を挙げる運動にも関与していました。訥庵が逮捕されたのはこの計画を知らされた慶喜の近習が幕閣に訴え出たからで、13日には訥庵が開いていた「思誠塾」が徹底的な家宅捜索をうけました。平山らは安藤襲撃計画の発覚を恐れていたので、もはや一刻の猶予もなりませんでした。

文久2年(1862)1月15日の朝、襲撃場所の坂下門に集まったのは次の6人の有志たちでした。

平山平介(水戸浪士)  1841生
小田彦三郎(水戸浪士) 1833生
黒沢五郎(水戸浪士)  1833生  東禅寺事件関与
高畑総次郎(水戸浪士) 1828生  東禅寺事件関与
河野顕三(下野国河内郡の医師) 1838生
川本杜太郎(越後人) 1840生

その日は晴の式日で、江戸在府中の諸大名全員が登城して将軍に謁することになっていました。午前8時、安藤老中の行列は供廻りを増やして厳重な警戒態勢で城門へと向う途上にありました。最初に駕籠訴をよそおって飛び出したのは川本杜太郎でした。駕籠脇についていた刀番が駆け寄ってくると、川本は懐から短銃を取り出して、駕籠内の主を狙い撃ちしました。弾丸は駕籠からそれて、大小姓・松本錬次郎の太ももに命中し、彼はその場に倒れ込みました。この銃声の直後に、他の5人が行列のなかに斬り込んでいくと、警護の武士たちは一時混乱状態におちいり、駕籠の一角に間隙が生じました。そこを平山平介と小田彦三郎が斬り合いながらたどりつくと、平山が駕籠の後ろにまわって刀を駕籠中に突き刺しました。小田のほうは倒れていた松本が起き上がってきたので、彼を斬りたおしたのですが、なにぶんにも多勢に無勢ですからどうにもなりません。たちまち全員が無残に斬り殺されてしまいました。この間、わずか数分の出来事でした。
安藤は背中に傷を負いましたが命に別状はなく、歩いて城門内に入っていきました。彼はおちついて手当をうけ軽傷でしたが、事件後、安藤死亡説が巷に流れ、幕府が受けた打撃は想像以上に大きなものになったのです。
「首はあるなどと供方自慢をし」とか、
「あんどう(あんどん)を消してしまえば夜明なり」
などという落首が巷間で伝えられ、結局、幕府内部の権力抗争もあって、安藤は辞任に追い込まれ、その後、永蟄居を命じられたのです。「桜田門外の変」につづいて、幕府の威信の失墜はもはや覆うべくもありませんでした。

その日の昼ごろ、長身の若い武士が有備館に小五郎を訪ねてきました。


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