木戸孝允への旅はつづく 23


青年時代(江戸)

● 小五郎を救え

安藤襲撃事件が起る前から、小五郎はすでに要注意人物として奉行所に目を付けられていました。これより半年ほど前に、水戸浪士14人が東禅寺のイギリス公使館に斬り込むという事件が起きていました。書記官オリファントと長崎領事モリソンは負傷しましたが、公使オールコックは無事で、イギリス側に死者は出ませんでした。外国人の殺傷事件はそれまでも、アメリカ公使の通訳官ヒュースケンが路上で斬殺されるなど、6件発生していましたが、公使館そのものが襲撃されるのは初めてのことでした。
奉行所はこの事件の関与について小五郎を疑ったのです。水戸の藩士たちが長州藩邸に出入りしていることは、密偵を通じて幕府もつかんでいました。小五郎が捕まるのではないかといううわさが広まって、有備館では皆はらはらして成行きを見守っていました。久坂玄瑞もこの事態を憂慮して、入江九一にその緊迫した状況を手紙で知らせているほどです。

有備館での川辺の切腹は、奉行所にとっては小五郎を呼び出して、公然と尋問できる格好の機会だったのです。下手に隠してあとで漏れたらことはさらに厄介になると小五郎も考え、長州藩として川辺の自決を正直に届け出ていました。小五郎にとって幸いだったのは、それまで川辺とはまったく面識がなかったことです。ですから全然知らない男と言いはれば、奉行所のほうも攻めあぐねてしまいます。小五郎と利輔はいったん釈放されて、長州藩に「身柄預かり」ということになりました。そして、18日に再び北町奉行所に呼び出されます。
利輔は自分の出番がやってきたと思ったのでしょうか。これまで自分を取り立ててくれた恩も感じて、なんとか小五郎を幕府の疑惑から救おうとしました。利輔が奉行所に提出した書面によると、自分が最初に内田(川辺)に応対したことにしています。実際は奥平数馬でしたが、彼は小五郎とともに、いくどか水戸藩士たちとの会合に出席していました。自分なら使走りだから、咎めを受けても藩全体の問題にはならないだろうと利助は考えたようです。

しかし、奉行所もこんなことでだまされません。無関係な水戸浪士がなぜ小五郎をたずね、有備館の道場で切腹したのか、執拗な取調べが続きました。藩政府も幕府を憚って、小五郎の有備館用掛の職を免じて監禁し、奥平数馬に代らせました。これには有備館生たちが怒りました。木梨平之進、野村弥吉(井上勝)、佐々木男也ら27人が連名で、小五郎の監禁を解くよう幕府に周旋せよという、なかば脅迫まがいの嘆願書を藩政府に提出したのです。吉田松陰につづいて、第二の犠牲者が出るのではないかと、館生たちは危機意識を募らせたようです。そうなれば、長州藩全体の恥辱であるとまで記しています。小五郎を救え、とばかりに館生一同が立ち上がり、2月に入ってからは町奉行所から呼出があっても、桂小五郎は病気であると言って、利輔に他の藩士2名を付けて行かせるようにしました。場合によっては、奉行所の襲撃も辞さない覚悟を示していたのです。

小五郎を救おうとしたのは、有備館生たちばかりではありませんでした。幕閣と親しい長井雅楽も小五郎の救出に乗り出しました。長井は「水戸の攘夷派を説得できる人物は桂小五郎しかいない」という論で久世大和守ら4人の老中を説きました。和宮と将軍家茂との婚儀が終わってからも、長井の航海遠略策によって引き続き朝廷を懐柔したい幕閣たちは、長井の提案に耳を傾けました。長井は本気で水戸攘夷派への説得を小五郎にさせるつもりだったようです。見かけの穏やかさに惑わされて、小五郎の人物を見誤ったと思われます。小五郎は志操の固い男であるうえに、村塾生たちよりも早く吉田松陰との関係をもち、幕府に斬首された松陰を自らの手で埋葬しています。「われ必ず成さん」と丙辰丸の盟約で発した言葉は、すでに松陰の無残な死を目の当たりにしたときに、心に誓った言葉だったに違いありません。

幕府としても水戸藩のことは頭痛の種でした。今、強硬な手段に出て長州藩の機嫌を損ねるのは得策ではなく、幕閣らは長井の顔をたてることにしました。3月18日、小五郎は利輔とともに譴責処分を受けただけで、この事件の取調べは打ち切られました。自由の身となった小五郎は川辺から受け取った斬奸状の写しを同志たちの間にばらまき、これが次々に書き写されて、巷間に広まっていきました。一時は自分の身さえ危なかったのですが、小五郎は水戸尊攘派との「成破の盟約」をしっかりと守ったのです。


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