木戸孝允への旅はつづく 25


青年時代(江戸)

● 寺田屋事件

久坂玄瑞が「八つ裂きにしても足りないが、格別の温情で家名断絶まではせずに、切腹を仰せつけられ候条、云々」という趣旨の長井雅楽に対する二度目の弾劾状を書いてから5日後の4月23日、久留米・水天宮の神官武士真木和泉守ら70人が四隻の船に分乗して大阪を発ち、伏見に向いました。真木は年齢50歳ながら身長5尺8寸(約1.75メートル)の巨漢で、安政5年には「大夢記」を著して勤王討幕の思想を明らかにしていたので、尊攘浪士たちに敬服される存在になっていました。
権大納言中山忠能(明治天皇の生母慶子の父)家に仕える田中河内介の画策もあって、幽閉中の青蓮院宮の令旨が降ると信じた諸国の勤王派は大阪の薩摩藩邸にぞくぞくと集結していました。しかし、久光にはもとより倒幕の意思はなく、長井雅楽と同様、公武合体を目指して朝幕間を周旋することを目的にしていたのです。すでに朝廷からは「京都に集まっている不穏な浪士らを鎮撫せよ」との勅命を受けており、勤王派の期待に応える素振りはまったく見せませんでした。
志士たちは焦りました。こうなっては自分たちが先に挙兵して、関白九条尚忠(ひさただ)と京都所司代酒井忠義(ただあき)を襲撃し、倒幕の勅命を得て久光を巻き込むしかないと考えました。

その夜、伏見の船宿寺田屋に集まった者には、真木や田中河内のほかに有馬新七、大山弥輔(巌)、西郷信吾(従道)、田中謙助など誠忠組激派の薩摩藩士らが加わっていました。有馬らが薩摩藩邸を脱走したことを知った久光は激怒して、奈良原喜八郎、大山綱良、道島五郎兵衛ら同じ誠忠組の藩士8人を送って、有馬らの説得にあたらせ、従わない場合には暗示的に「斬れ」と命じたのです。
有馬らは説得に応じようとはしませんでした。君命に背くならば切腹せよ、といわれて憤激し、挙兵派はいまにも抜刀しそうな様子です。そこで道島が「上意」と叫んで斬りかかり、ここに誠忠組の同志が斬り合うという凄惨な血闘が寺田屋の一階で繰り広げられたのです。二階から加勢に入ったいく人かも斬られて、挙兵派は有馬ら6人が即死し、2人が負傷しましたが翌日自刃、鎮撫使側も道島が死亡、3人が重傷を負いました。有馬新七は道島に組みついて壁に押しつけ、同志の橋口荘助に「おいごと刺せ」とたのみ、橋口が二人を串刺しにしたと伝えられています。二階にいた者たちはもはや計画の実行し難いことを悟り、奈良原らの説得に応じて、その指図にしたがうことになりました。真木らは出身藩に引渡されましたが、田中河内介は鹿児島に護送される途中、子の瑳磨介とともに謀殺され、海中に投ぜられました(翌日、屍体が讃岐小豆島に漂着している)。
この事件以降、薩摩藩内の尊攘派は壊滅し、公武合体をめざす久光体制で薩摩藩は活動することになり、しだいに長州藩との軋轢が強まっていくのです。

一方、京都の長州藩邸には久坂玄瑞、佐世八十郎など、松陰門下生を中心とする約100人が武装して待機していました。寺田屋事件の報が伝わると、彼らは失望し、久坂らはやがて長井雅楽暗殺を企てることになります。
幕政改革を意図する久光の上京によって、朝廷内の攘夷派が強きの姿勢に転じると、幕府側に有利な長井の公武合体・開国策は急激に説得力を失っていきました。さて小五郎ですが、4月21日に機務に参与するようにという藩命を受けました。彼は将軍上洛の必要性を説き、この意見が入れられて、5月1日付で長藩世子が将軍上洛に関する建白書を幕府に提出しました。また、島津久光の建言により、一橋慶喜、松平春嶽(福井)、徳川慶勝(尾張)、山内容堂(土佐)の謹慎が解かれ、容堂を除く3人が5月7日に登城、将軍家茂に初めて謁しました。

5月12日、小五郎は藩命により、国事周旋のため江戸を発して京に向かいました。これ以降、小五郎は薩摩藩との関係に苦慮することになります。


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