木戸孝允への旅はつづく 26


青年時代(江戸・京都)

● 奉勅攘夷への転換

島津久光が朝廷に述べた主な幕政改革は、松平慶永(春嶽)の大老就任、老中安藤信正の罷免、一橋慶喜の将軍後見職登用でした。中山忠能、正親町三条実愛、岩倉具視が作成した勅諭には、10年以内の攘夷の実行、将軍の上洛、五大老の設置が加わっています。「岩倉公実記」によると、将軍上洛は桂小五郎の建策、五大老の設置は朝廷の発案、慶喜、慶永の起用は島津久光の意見となっています。これらを実現するため、久光は勅使大原重徳(しげとみ)を奉じて江戸に向いました。

小五郎が江戸を発つ前の5月5日、京都では浦靱負(ゆきえ)が長州藩世子・毛利定広あての内旨を中山忠能から受けとっていました。そのなかに、長井雅楽の建白書中に「朝廷ご処置に対していささか謗詞(誹謗のことば)に似寄っているところがあり、この点については藩主慶親が上京したらご弁解なされるでしょう」という一節があり、その後に出された御沙汰書には「開国航海の論は国体にかかわるので叡慮(天皇の意思)に沿いがたい」と述べていました。
江戸の藩庁はこの報告をうけて驚きました。航海遠略策を支持していたはずの朝廷が、今度は「不敬の疑いがある、開国してはならない」と言っているのですから、藩是を根本から見直さなければなりません。
藩主敬親は朝廷に弁解するために6月6日、慌てて江戸を発して京都に向かったのですが、小五郎はこの時期での藩主の上洛には反対でした。「島津、毛利は協力して公武間の周旋に尽力せよ」という勅諚が出されているのに、薩摩の久光はまだ江戸に到着していませんでしたから、長州藩主が久光を避けたと誤解されかねません。小五郎は江戸留守居役の来島又兵衛あてに手紙を書きました。
「急にご上洛と申す儀は合点がいきません。勅使の御下向を知らないときの御評議と思いますが、勅使の御着日を御承知になったうえは、必ず御発駕なされませぬよう、恐れながら朝廷もそのようにおぼし召しです」
しかし小五郎の手紙が届くまえに、藩主は江戸を発ち、中仙道経由で上洛の途についていました。そこで勅使が川崎に着いたとき、事情を釈明するため、長州藩は周布政之助を派遣したのですが、長藩の動きに対する薩摩の疑惑を完全に晴らすことはできませんでした。
その後、長州からは周布のほかに来島又兵衛、小幡彦七、宍戸九郎兵衛が加わって、柳橋の料亭「川長楼」で薩摩の大久保一蔵、堀次郎らと会談することになりました。酒盃をかさねながら、周布が、
「薩摩藩に対して他意はない。違背した場合には不肖政之助、腹を切ってお目にかける」と言うと、堀次郎が、
「面白か。それならここで腹を切れ。おいどんが検分し申そ」
挑発的な堀の言葉に周布はかちんときました。酒乱の癖がある周布は抜刀して剣舞を舞いながら堀に近づき、今にも斬りかかりそうな様子をみせたので、小幡が後ろから抱きとめました。しかし来島が剣をつかんで、応戦の構えを示すにいたり、大久保がこの場を治めようと、畳をはがして指一本で頭にのせ、独楽のように振りまわしたという話が伝わっています(この会合は中国の故事に倣って「鴻門の会」と呼ばれた)。堀は長井の同調者であったし、西郷も痛烈に非難していた人物ですから、周布はよけい本気で「斬ってやる」という気になってしまったのかもしれません。結局、和解はならず、かえって険悪な雰囲気のまま、双方は別れることになりました。

藩主慶親は6月20日に中仙道中津川駅に着き、翌日には小五郎がすでに航海遠略策の放棄を説得していた世子定弘の命をうけて到着し、藩主に京都の政情を詳しく説明しました。朝廷が「誹詞に似寄っているところがある」とみなしている以上、長井の開国論を維持するのは難しい状況です。その晩、藩主のもとで益田弾正、浦靱負らの重臣に小五郎が加わって、藩の方針をめぐって密議がなされました。三日間にわたる議論のすえ、これまでの公武周旋という路線は廃棄されることになりました。
藩主一行は7月2日に京都に入り、小五郎は周布、中村九郎兵衛とともに他藩との外交折衝の任にあたることを改めて命じられました。翌6日には周布、中村、小五郎が出席して、藩是決定の御前会議が開かれました。徳山藩主毛利元蕃、老臣の毛利伊勢、益田、浦のほかに役付10人が左右に居ならんでいました。長州藩では家老らは政治にあまり口出しせず、大組士の意見を家老たちが承認すれば、藩主はいつも「そうせい」と言ってすぐにゴーサインを出していました。このため慶親は「そうせい侯」とあだ名をつけられ、世間では無能よばわりする者もいましたが、こういう大らかな藩主だったからこそ、長州藩では吉田松陰、桂小五郎、久坂玄瑞、高杉晋作ら有能な藩士が育っていったのでしょう。
この会議で藩論は一変しました。航海遠略策が破棄され、奉勅攘夷が藩是となったのです。下準備は中津川の会議でできており、公式な会議でその確認がなされたわけです。小五郎が周布を動かし、重臣を説得する根本の力となったことはいうまでもありません。7月14日、小五郎は右筆に任ぜられ、政務座副役を命じられました。だが江戸での公武周旋が、京都では奉勅攘夷に変ってしまったのですから、長州藩は無節操と非難されてもしかたなく、また、薩摩の久光は出し抜かれたと思うかもしれません。しかし長州側からみれば、突然の久光東上によって、これまで長井雅楽を中心に進めてきた公武周旋が破綻したわけですから、重臣たちには久光に協力せよと言われても釈然としないものがあったのでしょう。久光のほうにも長州藩の中央政界での活躍に、焦りや嫉妬がなかったとはいいきれません。両藩の関係はこれ以後、悪化の一途をたどることになります。

一方、久坂玄瑞ら若い松門生らには、変節、無節操という非難は我慢できることではありませんでした。誤解を解くためには実行あるのみ。重役会議に先立って、久坂は野村和作、伊藤俊輔、寺島忠三郎らとともに長井暗殺を企てるのです。


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