木戸孝允への旅はつづく 27


青年時代(江戸・京都)

● 来原良蔵の自決

長井雅楽が帰国を命じられて江戸を発ったのは6月18日のことでした。伊藤俊輔が藩主にしたがって京都に着いたのが7月初めで、彼は木屋町の宿で足軽仲間の野村和作と酒を飲んでいました。そこに久坂がぶらりと現れて酒の席に加わりました。でも、久坂の様子がどうもいつもとは違うのです。見ると眼に涙を浮かべているではありませんか。彼は口数も少なく2人を残して去っていきました。
久坂は長井を殺る気だ、と直感した2人はあとを追い、大津までくると、そこには久坂の他に寺島忠三郎など4人がすでに集まっていました。結局、伊藤と野村も仲間に加わり、みんなで手分けして長井の宿所を突き止めようとしますが、どこに泊まっているのかいっこうにわかりません。長井は久坂らが自分を狙っているのを察知したらしく、供の列と別れて別の経路で密かに帰国していたのです。
暗殺計画が失敗に終わったことを悟ると、久坂らはもはやこれまでと諦めて、ことの経緯を正直に藩庁に届け出ました。その後、彼らは京都の寺で3箇月余謹慎することになります。一方、長井雅楽も朝廷への謗詞の罪を問われて自宅謹慎となり、最終的な処分を待つことになったのです。

長井雅楽を支持してきた小五郎の義弟・来原良蔵は自らの責任を強く感じていました。予想しなかった事態とはいえ、結果的に藩に迷惑をかけてしまったことを、生真面目で忠義心の強い彼は苦にし、長井が失脚した以上、自分も責任を取らなければならないと思い詰めます。彼は「萩に隠退し、切腹して詫びたい」という趣旨の願書を藩庁に提出しました。しかし、周布ら要路は彼の才能を惜しみ、有備館用掛に再任して、江戸下向を命じたのです。
来原はやむなく江戸には向いましたが、今度は攘夷の魁となって死のうと決意します。脱藩して、外人居住区のある横浜に侵入するつもりでした。ちょうどそのころ、横浜では有名な「生麦事件」が起っていました。島津久光の行列のまえを騎馬で横切ったイギリス人一行に供の侍が斬りかかり、一人を殺害、二人を負傷させ、残りの女性一人だけが馬を走らせて無事、横浜の居留地にたどり着いたのです。この事件以後、横浜では武装兵が町を巡回し、監視の目が一段と厳しくなっていました。

来原を心配した小五郎は佐世八十郎(のちの前原一誠)に説得を頼むとともに、世子定弘の力も借りて、なんとか彼を思いとどまらせようとします。定弘が藩邸を脱出した来原の呼び戻しを命じたので、みんなで彼の居所を探しまわります。夜中の12時ごろに品川の宿で酒を飲んでいる来原をようやく見つけると、正使格の竹内は別室に控え、他の3人が説得にあたりました。彼の脱藩を不問に付して、なんとか穏便にことを処理するための配慮でした。これまでの公武周旋・開国策を突然、奉勅攘夷に変えたことで、来原を追い詰めてしまったのですから、藩側にも後ろめたさがあったのでしょう。来原は意外なほど素直に説得に応じて、世子にも対面します。
「忠義の心から出ていることはよくわかっている。だが、いまは暴発の時期ではなく、自重してわれらを助けてくれないか」
という定弘のやさしい言葉に、来原は涙を流し、
「謹んで仰せのとおりにしたがいます」
と言って、あとは絶句してしまいました。横浜での外人襲撃を断念した彼が次にやれることは、ただひとつしか残されていませんでした。

翌朝、桜田藩邸内の自宅で、切腹して果てた来原良蔵の血にまみれた遺骸が、彼の若党と中間によって発見されました。来原は8月28日の日付で藩庁と義兄・小五郎への遺書をしたためていました。
「忠義と思ってやったことが、すべて不忠不義となってしまい、自分を誤り人を誤らせた罪はのがれがたく、割腹してお詫び申し上げる――」

来原良蔵自決の報せを聞いたとき、小五郎は一瞬、目をつぶり、身体の平衡感覚を失ったようでした。
「桂さん、しっかりしてください!」
佐世や有備館の仲間たちが彼を支え、慰めの言葉をかけます。今まで小五郎は立場上、自分は表に出ずに陰で義弟の行動をはらはらしながら見守ってきたのです。日ごろは冷静な彼も、この時には感情を抑えることができなかったようです。顔を覆って泣く小五郎の姿に、周囲の者たちはもはや声もかけられず、もらい泣きする者たちもいました。航海遠略策に反対してきた小五郎は、これを良かれと思って支持した良蔵をついに救い得なかったのです。彼の深い哀しみと悔恨の涙は、前途の多難を暗示するようでもありました。25歳にして未亡人となる妹治子と2人の幼な児のことも脳裡に浮んだに違いありません。
恩師・吉田松陰を失い、今また義弟・来原良蔵を失った小五郎はこの後、もうあとに戻ることのできない、勤王志士たちのリーダーとしての宿命を背負って、波瀾の人生を生きることになります。


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